自虐史観の原点がここにあり

          反日的日本人の思想

まえがき


 平成七年六月刊行の拙著『こんな日本に誰がしたー戦後民主主義の代表者.大江健三郎への告発状』が、予想外に多くの読者から歓迎されたことは、著者として、まことにありがたいなりゆきでした。大江健三郎がわが国民を蔑(さげすみ)ながら瞞(だま)そうとしている卑劣な言動に、心の底から怒りをおぼえ、どうしても黙って控えていることができず、ほとばしるように思うところを述べたこの一冊を、読者がしっかと受け止めてくださったことに、深く感謝の意を表します。

 察するに、日本全国の多くの方々が、大江健三郎や、彼によく似た連中に対して、あいつらの言うこと為すことはどこかおかしいぞ、もっとよく眼を開いて検討しなければならないぞ、そう感じて不審の念を抱いておられたからこそ、私のつたない論述に大きな関心を寄せられる結果となったのでありましょう。誰かが身を挺してきっちりと批判すべきではないかと、憤(いきどお)りの念を抱いて期待されていたのであると思われます。

 その趨勢(すうせい)の表われとして、読者から一〇〇〇通をこえる「著者へのメッセージ」が届きました。多くの方々が、添附した所定の用紙の欄外にはみだす熱い思いを入念に書き記しておられます。そのすべてにわたる共通のご意向は、次のごとくでした。

 
第一には、今までもやもやと自分の心にわだかまっていた割りきれない気持ちが、はじめてすっきりと整理され理解され、これで胸のつかえがおりてせいせいし
た気分となったのを喜びとします、という共感の伝達でした。

 そして第二には、こういう怪しからぬ言動に出ている者は大江健三郎ひとりだけではないはずだから、ぜひ、ほかのいわゆる「進歩的文化人」たちの言動にも照明を当て、はっきりときびしく批判してください、という激励でした。それら多数にのぼる「著者へのメッセージ」を拝見しているうち、私の胸に熱いものがこみあげてきました。皆さんのこの熱心なお勧めにこたえなければならない、そうあらためて決意して出来たのがこの一冊であり、私としては思いきり全力を尽くしたつもりです。

 戦後五〇年間、わが国の論壇を占拠し、日本の世論を誤導(ミスリード)してきた「進歩的文化人」たちの罪は果てしなく重いと申さねばなりません。さあ、今こそ、彼らの悪業を決算書のかたちにまとめるべき時です。

 ここに選び出しました十二人については、時間の流れのせいということもあって、読者の皆さんには、あるいはいささか馴染みの薄い人物が含まれているかもしれません。しかし、あえて断言いたしますけれど、この人たちは、かつては「進歩的文化人」の代表であり、頭目であり、先頭走者であり、極めつきの大物だったのです。戦後、反日思想が"進歩的"とされたのは、この人たちの健闘によるところ多大でした。

 それゆえ「進歩的文化人」の実態に迫るためには、その人の活躍時期がいささか古くても、いちばんの根本を衝き、悪臭の発生源を掘り返す必要があったのです。彼らの名前が多少とも縁遠い場合でも、彼らの発言を点検していただければ、ああ源流はこれだったのかと、必ずや膝を叩いて頷いていただけるはずです。同じ「進歩的文化人」でも、亜流や末流、小者は除きました。繰り返し申しますが、私は根本を照らし出すことに努めたのです。

 本書は、「進歩的文化人」批判を、最も根底から、最も徹底的に、その発生原因にさかのぼって検討し、「進歩的文化人」批判の定本となり、完本となるように念じて努めた、私の自信作であることを言明したく存じます。この本を叩き台にして読者の皆さんが、「進歩的文化人」批判の確固たる論理をうちたてられることを期待いたします。

 平成八年二月十一日
                                    谷沢永一




解説  潮匡人
 
本書は、平成七年発行のベストセラー『こんな日本に誰がした1戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』(クレスト新社)に続く第二弾として平成八年に出版され、多数の読者の支持を得た旧題『悪魔の思想ーー「進歩的文化人」という名の国賊12人』の文庫版である。

 前著は、ノーベル文学賞を受賞しながら、「戦後民主主義」の名のもとに文化勲章を拒絶した大江健三郎氏を「卑屈な人間」と批判して、二十万人の読者に支持された。その興奮冷め遣らぬ八ヶ月後に「第二弾」として出版されたのが、本書である。

 出版界では、「二匹目のドジョウ(第二弾)は、一匹目の約半数しか捌けない」というのが定説となっている。つまり、二十万部の書籍の第二弾であれば、十万部しか捌けない(売れない)というわけである。

 ところが、本書は、出版界の定説を覆す売行きを示した。発売忽ちにして、前著に迫る多数の読者の熱烈な支持を受けたからである。出版社には、優にダンボール箱二箱分を超える、読者からの熱烈な激励の葉書や手紙が寄せられたのである。

 この話のどこにも誇張はない。決して、「見てきたような嘘」の類ではない。筆者は見たままを書いている。種明かしをすれば、筆者は本書の編集を担当した書籍編集者だったという次第である。担当編集者としては、実に嬉しい誤算となったわけである。

 では、本書は何ゆえ、ベストセラーとなったのか。それは本書が、多数の真っ当な日本人読者の愛国心に訴えることに成功したからであろう。本書を読み進むうちに、読者はすぐに、谷沢氏が「進歩的文化人」すなわち、反日的文化人に浴びせる辛錬な言葉の数々を目にすることになる。多くの読者が、その言葉に酔いしれ溜飲を下げるに違いない。

 他面、少数の知識人の中には、谷沢氏の激しい言葉使いを非難する向きもあると聞く。果たして、どこまでの批判なら許されるのか。その分水嶺を考察するのは、拙稿の目的ではない。ここでは、端的に谷沢永一氏の言葉を引用したい。

 「徹底的に一。それが私たちの信条である。相手側に批判されるべき決定的な落度があって、それを批判することが、社会的に有意義である場合は、とことん、徹低的に、骨髄に達するまで追求する。それが私たちの基本姿勢である。(『誰が国賊か』クレスト新社)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・省略。・

第四章 記紀の謎
私は、第一章、第二章で『古事記』を中心に『日本書紀』『出雲国風土記』などで語られる、スサノオ、オオクニヌシの出雲王朝の話を検証し、第三章ではその神話がいかに考古学的遺物によって裏付けられるかを論じた。私の想像力が勝ちすぎて、いささか筆が走りすぎたところがあるかもしれないが。これで出雲神話が、決して『古事記』編纂者が勝手に作り上げた全くのフィクションではなく、歴史的事実を正確に反映したものであることがわかっていただけたものと思う。


この章では、最初に予告したとおり、出雲神話の書かれている『古事記』『日本書紀』について論じようと思う。それにはまず、本居宣長と津田左右吉(そうきち)の説を批判しなければならない。

戦前の記紀論は、おおむね本居宣長の説に支配されていたといっていい。宣長は、今まで軽視されていた『古事記』こそ日本の「神(カム)ながらの道」が表れた神典であると考え、『古事記』の注釈書を書くことに一生を捧げた。その書が有名な『古事記伝』である。

p219

それに対して、戦後の歴史学者の多くは津田左右吉の説によっている。津田はまことに綿密な考証によって『古事記』『日本書紀』の研究を行なった。それが昭和二十三年(一九四八)、『日本古典の研究』と題する一冊の書物としてまとめられた。この書で津田は、日本神話ばかりでなく、記紀の応神天皇以前の記事をすべて信用できないと否定する。そしてそれらの神話は、六世紀の末、おそらく欽明(きんめい)天皇の御世に、天皇家に神聖性を付与するために創作されたフィクションであるとしてしまう。彼は「日本神話は偽造された」と一刀のもとに日本神話を切り捨ててしまった。

戦時中、津田説は出版法に触れたが、そのことがかえって津田左右吉の学者としての良心の証であると考えられ、津田説は、家永三郎氏の如き戦後左翼に転向した歴史家のみならず、井上光貞(みつさだ)氏の如きマルクス主義を採用しない冷静な歴史家すら影響を受けるところとなった。

つまり記紀を解明するには、この二人の説、本居宣長説と共に津田左右吉説を徹底的に批判しなければならない。さらにもう一つ、批判しなければならない説がある。それは誰あろう私自身の説である。


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本居宣長は『古事記伝』の序論の終りに「直毘霊=なおびのみたま」という彼が作った文章を付け加え、その「直毘霊」を彼自身が注釈している。

そも此道は、いかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此道はしも、可畏(カシコ)き高御産巣日神(タカミムスビノ)の御霊によりて、神祖伊邪那岐大神伊邪那美カムロギイザナギノイザナミノ大神の始めたまひて、天照大御神の受たまひたもちたまひ、伝へ賜ふ道なり、故是以(カレココヲモテ)神の道とは申すぞかし(『古事記伝」一之巻)

これは、『古事記」の説く道は人間の作った道ではなく、タカミムスビの御霊によりイザナギ、イザナミが始めて、アマテラスが受け継いだ、ごく自然で素直な道だというのである。それが宣長のいう「直毘霊」の道である。

この「直毘霊」の道は「漢の文化」が入ってきて以来衰え、「禍津日」の神が支配するようになった。「禍津日=まがつび」の神の支配とは、「ねじけた心」の支配であるともいう。私は「直毘霊」のくだりの部分を再三読んでみたが、宣長のいう「直毘霊」、すなわち「素直な心」というものは、決して素直な心ではないと思った。

日本人は外国の文化について、宣長のように「ねじけた心」をもって拒否したのではなくて、そのよきところは認め、それを素直にとり入れて、伝統文化と総合して独自の文化をつくってきたのである。

宣長の思想は、それまで日本の学者が陥った外国崇拝を改め、日本の古典研究を盛んにしようという狙いをもったものであろう。彼はインド崇拝の仏教者、中国崇拝の儒学者を批判し、インド及び中国は「ねじけた心」の国であり、日本こそまことに素直な「直毘霊」の国であるとする。

しかしインドや中国をいたずらに理想の国として崇拝する仏教者、儒教者を批判するのは正しいとしても、インド、中国を「ねじけた心」の国とするのはやはり大きな偏見であると私は思う。それは決して「直毘霊」ではなく、「ねじけた霊」といわざるを得ない。
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