長崎県壱岐市(旧勝本町壱岐市御柱祭
河合曾良終焉の地、300年忌
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曾良のふるさと諏訪市は壱岐市(旧勝本町と姉妹都市である。
諏訪市諏訪大社「御柱=おんばしら」

 

河合曾良(かわいそら)1(慶安二年〜宝永七年)壱岐の墓所・「曾良旅日記」 諏訪

曾良は通称岩波庄右衛門正字、のち河合惣五郎と称した、信州上諏訪生れ。伊勢長島の大智院住職の叔父秀精を頼って長島藩に勤めた。後に江戸で国学と神道を学び、これが「おくのほそ道』の旅へ随行する基となったらしい。

曾良は芭蕉初期からの門人で、深川芭蕉庵の傍に住んだ事が「雪丸(ゆきまろ)げ」(曾良)に書かれている。

しかし、何と言っても曾良の功績は、その俳句活動以上に『おくのほそ道』の旅の芭蕉と同行して『曾良旅日記』『俳譜書留』などを残した事であろう。

『曾良旅日記』には、旅の毎日が克明に記され、当時の地方の様手や芭蕉の私生活の一端等が生々しい、

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平成七年六月、所属結社の九州大会が小倉市で開崔された。終了後仲聞達は、柳川や杉田久女の「谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま」の句で有名な英彦山等へ行って旅を楽しんだ、私は一人で福岡港から船で壱岐の島へ渡り、曾長の墓を探訪した。

郷の浦港からタクシーで墓所へ向かう途中、運転手が.元寇(げんこう)の遺跡に立ち寄ってくれた。犠姓になった人達の千人塚である。

あまり家も見えないが、道路は整備されている。城山公園への道を逸れると、小山の中腹に能満寺中藤家の墓域があり、上部の欠けた曾良の墓を見出した。正面に、

賢翁宗臣居士 也

側面に「江戸之住人岩波庄右衛門慰塔」と彫られている。全国津々浦々を歩き、特に芭蕉と『おくのほそ道』の旅を共にした曾良の足跡が、ここで途絶えて生涯の地となっていることに、異様な感動を覚えた。

この付近の本道の傍に山中温泉での作、

行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原    曾良
の句碑、そして城山公園には次の碑がある。

春に我 乞食やめても 筑紫かな     曾良

書写した法華経を、全国六十六ヶ所の霊場へ一部づつ納める。"乞食行脚"を止めても筑紫へ行きたいと願った句で、それが実現されたこの地に建てられたのである。

この城は、朝鮮征伐の為に秀吉が築いたものだが、戦いに破れた時に敵に利用されないように、白ら破壊したものと言われる。

能満寺では、急に立ち寄ったにも拘らず、曾良が加わった"巡国使"の資料をコピーして下さり、役に立った。往時の調査項目などが詳しく記されている。

壱岐勝本浦の港を指呼に、海岸べりの"曾良終焉の家"を訪ねて、家の人と話をした、この家で療養しながら没した曾良の遺品は、戦後の屡示会に出したまま、行方不明という。

曾良の墓詣という長年の夢を果して、再び訪れることのないだろう壱岐の青領を振り返りつつ、島を去った。

尚、曾良の郷里である諏訪の墓は、遺髪を納めた供養墓である。帰りの新幹線で、前記の句仲間と出逢った。

ところで、曾良は『おくのほそ道』の旅中に、山中温泉で腹を病み、一人で伊勢の長島へ向かう、まず近くの全昌寺へ泊まった。寺はJR北陸線大聖寺駅から十分位の所にあり、ここで一句残した。

終夜(よもすがら) 秋風きくや裏の山   曾良

別れてきた師への想いと共に、旅愁がある句。寺裏は墓山で、ゆるい尾根を登り始めると、一面に墓が散荘している。

庭には句碑や宝物殿があり、更に本堂には杉風が作って贈った「芭蕉木像」がある。門の前の道端に、矢印で「深田久弥の墓」とあった。登山に夢中になった青春時代を思い出して懐しかった。

波こさぬ ちぎりありてや 鶴(みさご)の巣 曾良

               訪問日 壱岐平成七年六月五日
                全昌寺平成七年七月二十八日