同調圧力を超えて(下

 マジョリティが自由な社会を破壊する  池田清彦


 最近よく、新聞やテレビのニュース番組で、芸能人や政治家のスキャンダルが取り上げられます。中には些細な失敗や失言を、さも重大事のように伝えるものまであります。山梨大学名誉教授で早稲田大学国際教養学部の池田清彦さんは「人の足を引っ張る社会は独裁政治の始まり」と警鐘を鳴らします。

 ビール片手に車を運転できる国

 イギリスの名宰相といわれたチャーチルは、民主主義というのは史上最悪の政治制度だ」と断言した。この言葉は「ただし、今までに生まれたそれ以外のすべての政治制度を除けばね」と続く。民主主義の反対は独裁政治である。「独裁」というと悪いイメージがあるが、ギリシャの哲人・フラトンは、「非常に優れた知見を持っている人が、民衆を治める賢人政治が望ましい」と言っ。

 どんな人も生涯を通じて賢人でいられるということはない。優れた指導者であっても、権力が集中すると反対者を粛清し、独裁者となっていく…。歴史はこれを繰り返してきた。だから多くの国は民主主義を採用しているのである。


 もちろん民主主義にも大きな欠点がある。それは、「多数決」を前提とするため、マジョリティ(多数派)の意見に振り回されることである。例として飲酒運転を挙げよう。20年くらい前、オーストラリアのある街でこんな光景を見た。交差点で信号待ちのトラック運転手が交通整理の警官に手で挨拶し、警官はそれに応えたのだが、なんと運転手の手には缶ビール(!)が握られていたのである。

 当時のオーストラリアでは「このくらいなら飲んで運転してもいい」アルコールの量が決められていた。考えてみれば、日本でも20年くらい前までは、酒の席で車で来ていることを告げると「じゃあビールー杯だけ」と勧められたものである。

 それが、1999年に東名高速で起きた飲酒運転のトラックによる子供2人が犠牲になった事故と、2006年に福岡県で起きた飲酒運転の乗用車による子供3人が死亡した事故を機に、「飲酒運転者を厳罰にしろ」という世論が盛り上がり、飲酒運転に対する罰則が段階的に厳しくなった。

 そして今では、「一滴でも酒を飲んだら車を運転してはいけない」というのが社会の共通認識となり、政治家や芸能人が飲酒運転で捕まると、たとえ事故を起こしていなくとも世間から激しいバッシングを受ける。

 飲酒運転はいけないが、強盗や殺人に匹敵するような犯罪ではない。それなのに公立学校の先生が飲酒運転で捕まると懲戒免職になることさえある。いくらなんでもやり過ぎではないかと思うのだが、私のような厳罰反対派や厳罰懐疑派はマイノリティ(少数派)なので、そんなことを言うとマジョリティから叩かれる。

 このマイノリティに対するバッシングや、マジョリティに合わせるように働く見えない力のことを
「同調圧力」という。

 権力者やマイノリティが叩かれるわけ

 社会を見回すと、マジョリティの同調圧力は日に日に高まっていることがわかる。地方議員の失
言や芸能人の不倫といった、犯罪でないばかりか私たちの生活にまったく関わりのないことでも、ひとたび世聞の怒りに火が点くと、まるで燎原(りょうげん)の火のごとく広がり、当事者への激しいバッシングが起きる。

 私が同調圧力の高まりを最初に感じたのは2OOO年頃である。当時の日本は、バブル経済がはじけて10年がたち、国民は出口の見えない閉塞感を感じていた。戦後からずっとサラリーマンの給料は右肩上がりだったのに、バブル崩壊後は収入が減少し、少子高齢化による社会保障費用の増大で将来の年金も危うくなっていた。

 人間は、未来に希望がある時は他者に寛容だが、それがなくなると人の粗(あら)探しをするという困った性質がある。そのターゲットとなるのは、政治家や芸能人、お金持ちといった社会的成功者、それに外国人や同性愛者などのマイノリティである。もしあなたがマジョリティならば、権力者やマイノリティへのバッシングに痛痒(つうよう)を感じないかもしれない。しかし、マジョリティがいつまでもマジョリティでいられるとは限らないのだ。

 日本の男性の喫煙者率は1960年代に約80%だったのが、現在では30%程度である。喫煙者がマイノリティになるにしたがって喫煙する場所が減らされ、たばこ税は引き上げられ、気がつくと64.4%という高税率になった。酒を飲む人はまだマジョリティだが、飲酒への風当たりが強くなると、喫煙者と同じ道を辿るかもしれない。

 それでもほとんどの人は、「たばこは吸わないし、酒をやめれば飲酒運転をしなくて済む。自分は金持ちでもないし外国人でもないから、同調圧力に従って生きた方がいい」と思うだろう。マジョリティとして生きるのは楽だ。しかし、そのような人間ばかりだと、やがてマジョリティの意見にまったく逆らえない社会になる可能性がある。それは国家として非常に危険な状態なのである。


 「非国民⊥と罵ったのは市井の人々

 1933年のドイツで、独裁者ヒトラー率いるナチス政権が誕生した。これは当時「世界一民主的」といわれたワイマール憲法下での出来事である。ナチスは選挙によって「民主的に」第一党になり、その後、強引な政治手法によって民主主義を破壊したのだ。

 現在の中国も建前は民主主義国家である。独裁者が三代続く北朝鮮も正式名称は「朝鮮民主主義人民共和国」だ。ところが、中国の最高意思決定機関である全国人民代表大会では、全員一致で議題が決定される。北朝鮮の最高人民会議の代議員選挙は投票率100%で、各選挙区に1人ずつしかいない立候補者は全員当選する。

 こんなことはおかしいとみんな思っているが、政権に反対すれば粛清され、下手をすれば殺されるから、誰も表立って反対できないのである。

 中国や北朝鮮というと、我々の社会と対極にあると思われている。確かに、日本では、国会・地方議員は公正なる選挙で選ばれ、表現の自由や信教の自由も憲法で保障されている。

 しかし、ほんの70年ほど前の太平洋戦争の時、日本には普通選挙も表現の自由もなかった。それどころか、特高警察や軍の憲兵が国民の思想や行動を監視し、国民は隣組という住民組織によって反戦思想の人物がいないか相互に監視していたのである。

 本当に戦争を推進するのは、軍部でもなければ右翼政治家でもない。それは「市井の人々」、つまりマジョリティである。ひとたび「正義の戦争」という言説が多数の支持を受け世論が形成されると、これに異を唱えるのは相当な勇気がいる。皆に同調し、反対する人を罵倒する方が楽である。

 こうして日本人のほとんどが戦争に協力し、反戦の立場の人を「非国民1」と罵ったのだ。ところが敗戦になり、内閣が一億総繊悔」を主張すると、国民の大多数は掌を返したように「自分は戦争反対だったが、みんなが賛成していたので言えなかった」と、反戦主義に鞍替えした。彼ら彼女らは嘘をついていたのではない。ただ、他人に同調していただけなのである。

 リバタリアニズムが自由を守る

 民主主義とそれが標榜する「自由」が、同調圧力に対していかに脆弱かおわかりいただけただろうか。マジョリティが政治家を動かせば、独裁国家をつくることなどたやすい。それを止めるのが憲法であり、だから憲法は簡単には改正できないようになっているのだ。

 ところが2014年7月、政府は憲法9条(戦争放棄)の解釈を変更して、それまで認められていなかった「集団的自衛権」を認める閣議決定をした。これによって日本は、アメリカが攻撃を受けた時、海外に自衛隊を展開し他国を攻撃することが可能となった。

 戦地での治安維持活動で自衛隊員が戦闘に巻き込まれれば、一度に数十人が死ぬことも十分ありうる。そうなれば政府は相手への反撃を検討できるのである。その時に、国民の一部が「報復はやめるべきだ」と言っても、「隊員の死を無駄にするな」という声のほうが大きければ、日本は再び戦争へと突入するだろう。

 国民性というのはそう簡単に変わるものではないのだ。そうならないためには、マイノリティの存在を認め、彼らの意見を尊重することである。世間では、「多様性を認めるために相手を理解しよう」というスローガンが、さも良心的な考えのように流布されているが、これは「理解できなければ差別してもかまわない」という考えと紙一重で危険である。

 すべての人を尊重するという観点から、最もラディカル(根源的)な思想は「リバタリアニズム」であろう。
簡単に説明すると、人は誰でも、アホなことをする権利、他人を愛する権利、他人をバカにする権利などを持つが、他人に愛される権利や他人に褒めてもらう権利、他人に理解してもらう権利などない、ということである。

 つまりあなたは、たばこを吸うのも酒を飲むのも同性を好きになるのも真っ赤な服を着るのも自由だが、他者がそれを嫌う権利も同時に認めなければならないのだ。

 人間の脳みそはそれぞれ異なるのだから、究極的には他者を理解することなどできない。皆がそのことを知れば、マイノリティだけでなく、マジョリティも今よりずっと生きやすくなるだろう。
人々の個性と多様性を尊重する社会の来ることを願うや切である。