円覚寺【臨済宗】瑞鹿山大円覚興聖禅寺(ずいろくさんだいえんがくこうしょうぜんじ)

わが国はおよそ7百年前、文永・弘安の二度にわたる家古軍の来襲という空前の国難を迎えた。時の執権北条時宗公はかねてより深く禅に帰依し、弘安の役のさなかにも、中国から招いた無学祖元(仏光国帥)を帥として、日夜参禅に励んでいた。

国を挙げてこの難敵に当り、蒙古の大軍を撃退した時宗は、
文永・弘安両役に殉じた被此両軍死者の菩提を弔い、己の精神的支柱となった禅道を弘めたいと願い、且つその師仏光国師への報恩の念から円覚寺の建立を発願した。

「円覚」の寺号は寺地選定の後、この地から石櫃に入った円覚経を堀り出したことによるといわれている。開山の法灯は高峰顕日(那須雲巌寺)、夢窓疎石(天龍寺)と次第し、世に「仏光派」と称された。殊に夢窓は南北朝「七朝の帝師」といわれ、その門流は室町時代にわが国禅界の中心的勢力を形成した。

数度の大火に遭い、衰微したこともあったが、江戸末期に中興の誠拙和尚が出て、伽藍を復興し、現今の円覚寺の基礎を固め、修行者に対して峻厳をもってし、宗風の刷新を図った。

明治には今北洪川・釈宗演の帥弟のもとに雲衲や居士が参禅し、関東禅界の中心となった。居士林における学生坐禅会は古い歴史を誇り、秀れた人材を打ち出した。首都圏各地からの交通の便に恵まれ、静かな境致と相まって、各種の坐禅会・夏期講座など多くの人々に親しまれ、「心の寺・円覚寺」と呼ばれ、訪れる人々に深い心の安らぎを与えている。山内に十八ケ寺の塔頭(支院)があり、近末には浄智寺・東慶寺・瑞泉寺がある。


境内案内.

山門  
 
天明三年(一七八三年)当山中興の大用国師誠拙和尚が再建。楼上に観世音菩薩・羅漢が安置されている。「円覚興聖禅寺」の額は伏見上皇の勅筆、円覚の寺号はこの地中 より「円覚経」が出たことに由来する。
仏殿 本尊は宝冠釈迦如来。昭和三十九年に再建された。天井に前田青邨監修、守屋多々志揮毫の白龍の図がある、大光明宝殿。
選仏場 仏を選び出す堂宇のことで、元の坐禅道場。一六九九年に建立。
居士林 禅を志す在家のための坐禅道場、もと牛込にあった柳生流の剣道場を、昭和三年柳生徹心居士より寄進され移築した。
方丈 「方丈」の名は、インドの維摩居士の居室が一丈四方であったことに由来する。本来は住職の居間であるが、多くの宗教行事がここで行われる。
百観音 江戸時代、拙由文尊者が百体の観音石像を奉安し、洪川老師の明治時代に整備され、震災後も一山をあげて復興につとめた。元は塔頭松嶺院の地内にあったが、今回方丈の庭園に移された。
舎利殿(国宝)  源実朝が宋の能仁寺から請来した仏牙舎利を奉安する堂宇.鎌倉時代に中国から伝えられた「唐(から)様式」を代表し、その最も美しい建造物として国宝に指定されている。
開基廟 北条時宗のみたまや。堂内に時宗・貞時・高時の尊像が安置されている。
白鹿洞  当山の落慶開堂の日、開山国師の法莚に列するために、この洞中より一群の白鹿が現れたという。この奇瑞によって当寺の山号を「瑞鹿山」という。
黄梅院 時宗夫人の覚山尼が時宗の菩提のために建立した華厳塔の地に、後に足利氏が夢窓国師の塔所として建立した。室町時代に盛んであり、古文書なども多い。
洪鐘(国宝) 一三〇一年北条貞時が国家の安泰を祈って寄進。鎌倉時代の代表的な梵鐘である。