小田原時代の耳庵翁とその茶
                                          田代道彌

 一、『電力の鬼』松永安左ヱ門

 耳庵翁のご遺体が松永記念館階の広間に戻ってきたのは、昭和四六年六月六日の夕刻であった。あれから早くも六年を過ぎて、翁が最後の一五年を過ごしたここ小田原でさえ、翁の在りし日の姿を知る人も次第に稀になろうとしている。松永記念館が、折に触れて故翁追慕の小展を企てることは、そのためにも意味のないことではない。

 翁は明治八年長崎県壱岐で生まれた。明治年上京して慶応義塾大学に入学、途中父の死により安左衛門を襲名するが、後年安左ヱ門の略称に変えてこれを一生押し通す。卒業して二七才の時に個人商店を開業し、三〇才で大分県中津町の竹岡カズ(一子)二○才と結婚する。

 明治四二年三五才の時、東洋製革鰍フ社長を引受け、ついで福岡電気軌道の専務に就任した。個人商会がコクスや石炭の販売をしていた中で、この年から本格的にエネルギー産業に没頭し、一年で周辺の同種企業の併合を重ねながら九州電気取締役になる。大正一○年関西電気副社長に就任すると、かねて纏めて置いた九州電灯鉄道と合併させて社名を東邦電力と改名し、ついで東京進出を企て別会社の東京電力を設立した。

 この間大正六年から九年まで衆議院議員にもなったが、その後は東京電力の東京進出とライバルの東京電燈の追い落しに専念し、この抗争はやがて昭和三年に、両社合併により結着する。昭和一三年、東邦電力は中部電力を合併したが、この年国家権力は電気事業の国営化を目論んで国家管理法案を成立させる。

 翁は五大電力を糾合してこれの反対運動を展開するが、昭和一六年にこの法案は決定を見る。戦争準備からついで開戦の間、翁は東邦電力の取締役も辞任し単に会長にとどまる。やがて昭和二一年、終戦後の日本経済の再建を期して東邦産業研究所理事長に就任し、ついで電気事業再編成審議会委員となって、徹底した電産の民営化を主張し、吉田茂首相やGHQと対立する。

 そして最終的に翁は主張を貫徹し、日本の電気産業は、少くとも後の国鉄のように足腰立たぬ所まで落ち込む危険からは回避できた。しかし民営化後に待ち構えていたものは発電規模の拡大であり、その膨大な事業費の捻出には一面でいわゆる電灯料の値上げをも含む。この時各社の申請した値上率は平均七六%で、折からの主婦連合会などの消費者団体の猛反撃の中で、翁は日本再建に不可欠の措置だとして一歩も譲らなかった。翁を『電力の鬼』と云うのはこの時始まり、そしてそれは人情がないからだという。

 たしかに翁の少壮の頃から他社の併合に専念し、時には政府やGHQにまで刃向かい、さらに電力のみにとどまらず産業界全般の指揮を怠らなかった。まさに事業の鬼と云うべきであろう。しかしそのいづれでもなくて、単なる電気料値上げ反対の時に云われたこの電力の鬼は、翁にとっても正になさけない呼び名であったろうと思う。

 昭和一九年、翁は八〇才の高齢ながら欧米視察に出る。特にロンドンにトインビーを訪問して『歴史の研究』の日本版版権を取得し、これは昭和四一年より刊行委員会が出版を開始した。昭和三一年には各界識者を集めて『産業計画会議』を組織し、自ら委員長になってこれ以後相次いで国に重要な提言を行う。

 勧告の内容は経済再建・北海道開発・東京神戸間高速道路建設・国鉄改革・専売制度改革・本州四国連絡橋架橋・原子力政策・東京湾道路、etc。戦後日本の復興の過程で、右の多くが実現していることを想えば、翁の卓見と指導力には、まさに眼をみはるばかりである。

 二、小田原来住前後

 翁の人生にいわゆる隠居時代というものは見えない。翁の熱烈な茶は遅く六〇才頃から始められたが、これもとうてい隠居の茶ではない。たとえば翁は敗戦の色濃い昭和九年の暮に、空襲警報の隙を縫うようにして京都から名古屋にかけての茶人を歴訪している。

 終戦後では昭和二一年秋、茶道文化会が戦後はじめて開く茶会に出るため鎌倉に向うが、伊豆の堂ケ島を出て台風の上陸に会い、土肥に一泊したが翌日もバスは不通、それでも翁は引返さず船原峠の六里の道を一人で歩いている。翌に二年五月には殺人的混雑の汽車に乗って京阪から奈良を経て名古屋に、各地に茶友を訪ねて無事を喜び合ったりする。

 しかし途中では停電中や断水中の旅館で何回も飲まず食わずを強いられ、臭過ぎる布団で睡も出来ない事もあった。これが翁の茶であり、とても隠居のやることではない。だから翁が小田原に移住しても隠居する気ではないし、茶に熱中してもそれは老人の楽しみなどとは程遠いものであった。

 翁が小田原に住んだのは、昭和二一年一二月一七日からである。現在の松永記念館西隣の位置で最初は昭和一八年頃に土地を取得していたものを、後にさらに買い増して拡大する。いったい翁の本邸は東京の下落合にあって、現在は新宿区だが当時は淀橋区であった。前章で触れたがこの土地は大正一一年七月、東邦電力の東京進出に当って、翁も六〇名ほどの社員といっしょに移り住んだ記念すべき土地である。そして後に翁は伊豆西海岸の堂ケ島や熱海、それから所沢に近く広大な土地を入手し、巨大な田舎屋を建てていた。

 柳瀬山荘がそれである。それにもかかわらずそして困難な情勢下で、翁はさらに小田原に住むことを熱望していた。私の持っている耳庵翁の書簡のひとつに、次のようなものがある。

 拝啓口年末とも相成(あいなり)御多忙之義二存上(ぞんじあげ)候口先日一寸(ちょっと)元箱根に参リ候処口病人ハ不相変(あいかわらず)二候モロ冬期間ハ小田原ニデモ出タラ良カロウト考へ有モロ小田原ニハ住ム部屋モ無之(これなき)トノ事気ノ毒二存候口其后近藤医師ト会シ其事咄(はな)シ候モロ是モ良キ考ヘモ出ズ気ノ毒ト申居ラレ候口尊兄ニモ色々御考ヘモ有之(これあり)事ト存上候モロ外二方法(ほうほう)ナケレバ気ノ毒ト云ツ外無(これなく)之口其内拝眉ノ上口御高見モ伺上度(うかがいあげたく)候口歳暮ノ印ヲ御序(おついで)二山ノ方二御届願上候

 二マ市長ヤ公務委員、署長ヲ一度飯二招キ度考へ居候内口年モ暮レ候ガロ正月ニナリテ何力尊兄ノ幹事役ニテ御連絡被下(くだされ)候ヘバロ結構こ存候尤もつと)モ佐藤君立候補ノ噂アレバロ暫ラク見送ルヲ隠当トスベキカトモ考へ候口宜敷(よろし
く)御判断願上候

                                                        松永安左ヱ門
     野島様侍史


 この中で病人と云っているのは一子夫人をさすと思われる。家人の事は一生を通じてあまり口にせず、ことさら文字にしたことも稀な故翁にとって、これほど気の毒を返復するのは異常ですらある。

 たとえば昭和三一年に一子夫人は腹部の切開手術を受けているらしいが、翁の書いたものの中には一言も触れるものがない。別に理由はないが、私事は公けにする必要がないということに違いない。そしてだからこそ、この気の毒は異常である。この頃一家は柳瀬山荘に住んでいた。その大きな田舎屋は天保一三年の建物というがそれをここへ引き移し、一部に鎌倉古材を翁が補入した。しかし食糧ばかりか電気も燃料も欠乏している当時のこと、この巨大な家に住むのは難儀であった。翁はその著『桑楡録』に云う。

 「三時を過ぎると遽(にわか)に寒くなり、大急ぎで室内に入って障子をしめ、炭火や楕火(ほだび)に身を寄せる。夜など禍火を焚いてあたってゐても、背中は氷を流すやうに寒くなり、文を書き物の本を読むにも頭が痛むやうになって、多くは八時を打たぬうちに何枚も夜具を重ねて打臥するのである。」

 大きな家だから天井は高く暖気はみな上に吹き抜けてしまう。「禍火ばかり焚いてゐると煙たくて眼を脹らしてしまふ。」とも書いている。終戦前後に東京では暮らせないし、柳瀬へ逃れればこんな眼にも会う。土地の買ってある小田原に住めば温暖ではあろうが、この頃建築は自由に出来ない時代であった。

 右の書簡にもどって、宛先は野島功勤老である。老は旧小田原警察署中央郵便局隣りの市営駐車場の位置の斜め前で、代書をしていたが戦後市会議員にもなった。歳暮を届けることを頼んでいるが、その山の上とは益田家か又は阿川家であろう。文中の近藤医師は鈍翁の健康を管理し、『茶こころ』の著ある近藤道生もと博報堂会長の巌父、平心庵近藤外巻である。

 この書簡に日付はないが、二伸の中に佐藤君立候補の話があるから、これは終戦の年昭和二○年の暮の手紙と見える。翌年六月に、佐藤謙吉市政は誕生している。歳末、故翁は再び暗く辛い冬の到来に暗然としながら、一子夫人の身を切実に案じていたことがうかがわれよう。

 話は戻るが、翁は大正一二年頃に強羅に純和風の秀麗な別荘を持っていた。蛇骨庵と銘じていたがこれは後に山林王諸戸家の二男の精文に譲られ、さらに美しく改築されて現存している。また同じ強羅に益田鈍翁が建てついで原三渓に譲った白雲洞茶宛を、三渓歿後に遺族から故翁は贈られている。昭和五年のことである。

 また小田原には益田鈍翁の健在当時翁も茶会にしばしば招かれているし、同町十字町の夜雨荘主人横井半三郎飯午庵からもよく茶事の招待があった。さらに古稀庵に住む翁の妹熊本クニの子の太郎・徳次郎氏などを訪れることもあった。箱根の往復にも車から降り立ち、師友も住む小田原の地は、翁にとっても、むしろ懐かしい土地であったように思われる。

 三、老欅荘の日々

 翁が悲壮にも似た手紙を書いた翌年の昭和二一年の秋、念願の小田原の家が起工に漕ぎつけた。そして寒気の始まる直前の一二月にあわただしく入居する。当時の建築制限の限度の五坪の平家で、訪ねてきた池田成彬がそのあまりにも小さな家であるのを面白がって、松の大木に近かったので松下亭と名づけた。翁は書物や家財道具を、屋根裏を利用して片付けていた。

 少し過ぎてから柳瀬の農家の古材を取り寄せて待合や八畳間を作り、さらに戦前の昭和一五年に、奈良の今井町で今井宗久の家を需めて解体したままで置いたものをこの庭に建てた。この時解体に行った古谷孝太郎氏は、檀原神宮で紀元千六百年祭が挙行されているのに行き遭い、持参の大工道具を警官に見とがめられて生きた心地がしなかったという。そしてその時宗久茶室の中心部分は、炭小屋になっていたと、これも古谷氏から伺った話である。

 小田原に再建されたこの茶室は、折から梅の実の熟する時だったので黄梅庵と命名された。翁なき後この茶室は堺市に移築されてそこに現存する。三千坪を越えるここ板橋の土地は、それでも柳瀬山荘の一万坪には及ぶべくもない。そしてそちらは茶道具まで一切をつけて、翁はさっさと国に寄贈してしまった。そのうち茶碗は上野博物館の東洋館に常時展示されているが、ガラス越しに見るそれは久しく湯通しされたこともなく、骨のように乾いて哀れである。ともあれ翁が『老欅荘』と呼んだのはこれらのむしろ疎末な建物が次第につけ足された全域のことで、それは門前にケヤキの古木が立っていることに因む。そして翁はこの老欅荘から東京大手町の電力中央研究所へ通っていた。

 月曜日に上京し、火曜日の経営会議と水曜日の産業計画会議に出席、この間二日は都内に宿泊して水曜日の夕刻に小田原に帰った。往復とも普通車で、それもデッキに近い所に立っている事が多かったらしい。八〇才を過ぎた翁が一時間近くもである。前記した今井宗久の旧席黄梅庵は、別棟の南側に広い板縁が付けられていた。翁はここを寄り付きに見立て、そのための道具が置かれた。また点前座は本来道庵囲いであったらしいが、翁は囲いを取り払ってすっきりさせてしまった。

 この例はすでに箱根の白雲洞茶苑の不染庵の改修でも見られる所で、一畳台目のこの席は台目畳であるにもかかわらず中柱を取外し従って袖壁もない。平面図だけが一畳台目で、まことにすっきりしている。

 翁の茶はこのように創意に富んだものでまことに自在だが、しかしその道具の鑑賞眼はきわめて厳しいものがあって、特にその取り合わせには自他ともに深くこだわっていた。そんな厳格な翁ではあったが、老来好々爺のやさしさも加わってきた。たしか昭和一五年の夏と思うが、翁は白雲洞茶苑に避暑されていた。私が園長をしていた強羅公園は、毎夜々中の時過頃までダンスパーテイを開催していて、園内に在る白雲洞に居ては、とうてい眠れるものではない。

 今にして想えば当時の翁の権力を以てしたら、こんな数百名のダンスパーティを止めさせる位、何でもない事であった。しかし翁は怒るどころか浴衣がけでその会場に出てきて、偶には女の子と踊ったりされた。

 小田原箱根の人達で翁の茶につき合っていたのは、その頃は近くの阿川・結城両老、山田又市、鈴木英雄、近藤・甲斐・今宮の三国手、金澤慎一郎、一渕忠彦などの諸氏、箱根では塔の沢の福住楼女将、宮城野の今田無極、木賀の塩原禾日庵、服部正楓の各氏などの顔ぶれである。

 昭和三四年月に松永記念館を開館し、以後毎年四月と十一月の二回ずつ特別展観を兼ねて園遊会を催し、これも翁の大きな楽しみのように見えた。中でも昭和一六年には国宝『釈迦金棺出現図』を入手展示して日本中を驚倒させている。記念館の建設は将来これら美術品の散逸を防ぐことを目的とし、一子夫人の進言によるものだったというが、その夫人もついに記念館の完成を見ることなく、昭和三三年一○月九日に永眠された。病院で納棺の時、翁はその枕頭で茶を練って捧げている。翁自ら納骨して、敢えて葬儀を行わなかった。

 いま武蔵の平林寺に、翁と夫人の二人の墓は並んでいる。一三年後、翁も後を追われ、松永記念館の一階に迎えられたその
お棺の前には、かの釈迦金棺出現図が飾られていた。そして翁自身、やはり葬儀らしいものを執り行わせなかった。九七才であった。
    (たしろ みちや=箱根カルチャー主宰、元箱根強羅公園長)