日本人への暴虐に世論が沸騰した
(暴れる支那をこらしめる)に染まり、軍内部でも強硬派が勢いを増す。一方で中国軍の反日攻勢も収まらず、ついに国際都市、上海に飛び火した。満州事件から、11日後の8月9日、上海の虹橋飛行場付近で、日本の海軍上陸t陸戦隊、大山勇夫中尉の車が中国の保安隊に銃弾を浴びせられ、大山中尉と運転手が死亡した。海軍は上海在住の日本人を保護
ため11日、佐世保から軍艦21隻と3干人の特別陸戦隊を派遣し上陸させた。

しかし中国軍はこの時点で15万人が上海に結集しつつあると言われ、とても陸戦隊だけ対抗できない。このため政府は13日の閣議で陸軍の内地2個師団を上海派遣軍として向かわせることを決める。司令官には、予備役に編入、つまりいったん現役を退いていた松井石根(いわね)大将が命じられた。

さらにこの日、首相の近衛文麿は「支那軍の暴虐を鷹懲し、もって南京政府の反省を促す」との声明を発表、全面的な日中戦争(当時の日本側呼称は支那事変)に突入していく。

8月28日、上海派遣軍は長江河口域の呉湘付近から上陸、中国軍と激しい戦闘を繰り返しながら10月下旬までには、上海北西部をほぼ手中に収め、市内に上海派遣軍の司令部を設けた。しかし中国軍の抵抗も根強く、膠着状態となっだため、日本は新たに第十軍(柳川平助司令官)を編成、投入することを決めた。第十軍は11月5日、上海南岸の杭州湾から電撃的に上陸を果たし、中国軍の背後を突くように上海市内に向け進軍を始めた。

翌6日には上海の空に「日軍百万上陸杭州北岸」というアドバルーンが揚がった。日本側が敵の戦意を失わせるため揚げた文字通りのアドバルーン作戦で、むろん「百万」は大風呂敷だった。だがこれを見た中国軍は国民政府の首都である西方の南京方面に向け退却を始めた。日本軍は発生以来約3ヵ月で上海の完全制圧に成功したが、この間に1万人近い,戦死者を出していた。第十軍は上海派遣軍に吸収される形で新たに松井を司令官とする中支那方面軍が編成される。

問題はこの後、どこまで攻撃するかだった。現地軍には一気に南京も陥落させるべきだとの考えが強かった。しかし多田駿参謀次長ら陸軍中央は戦闘地域を上海地域に限定、その間に南京政府と交渉を進める意向だった。

松井も南京攻略は時期尚早とこれを認め、上海西側の蘇州ー嘉興を結ぶラインを「制令線」と定め、部隊をその東側にとどめた。だが東京の軍中央や現地軍とも内部の意思疎通が十分でない中、第十軍が突然西進を始めたことで戦火はいよいよ歯止めがかからなくなった。(皿木喜久)