から(韓)くに便り 黒田勝弘
故李方子(まさ)さんのこと
戦前、日本の皇族から韓国(朝鮮)の李王家に嫁いだ李方子(梨本宮方子)さんが亡くなられてから30日で20年になる。同じく20年前の1989年には昭和天皇も亡くなられている(1月)。お二人は同時代の人ということになるが、実は方子さんは昭和天皇の皇太子時代、有力なお妃候補だったことで知られる。
その経緯は省くが、方子さんは韓国の李王朝最後の皇太子、英親王・李?(イウン)のお妃だった。日韓双方で激動の戦前戦後を経験され、20年前の4月30日、ソウルで87歳の生涯を静かに閉じられた。今から90年ほど前の方子さんの日韓結婚は、歴史的には日本の韓国(朝鮮)に対する支配・統治のため「日韓融和」を目指してのいわゆる"政略結婚"だった。韓国人にとっては決して愉快な話ではなかっただろう。
戦後(韓国では解放後)、共和国として新しく出発した韓国にはもう王家は存在しなかったが、彼女の葬儀は「最後の王朝葬礼」として当時、話題になった。今でもよく覚えているが、ソウル中心街の沿道には多くの市民がつめかけ、「ウリナラ(わが国の〕イ・バンジャ(李方子の韓国語読み)王妃」といって見送った。手を合わせる人、頭を下げる人、目頭を押さえる人…。そして一人の老女は車道に進み出て、葬列に向かってひざまずいては頭を地にすりつけるという、伝統礼式を何回も繰り返していた。
葬儀には三笠宮ご夫妻が参列され、天皇、皇后両陛下をはじめ日本の多くの皇族からも弔花が届けられた。方子さんが戦後の韓国社会で韓国国民に親しまれた背景には、障害者福祉活動に献身されたこともある。韓国における障害者福祉の草分げ的な存在だった。活動の中心になった障害者施設「明暉園」と「慈恵学校」は今もある。亡くなられた当時、韓国のテレビが日韓双方で街の声を聞いていたが、韓国では方子さんをほとんどの人が知っていたが、日本ではほとんどの人が知らなかった。
あれから20年。この間、2002年に高円宮ご夫妻が訪韓の際、ゆかりの「明暉園」を訪問されたことがあるが、今や方子さんは日韓双方で次第に忘れ去られつつある。考えてみると実に不思議かつ残念なことだが、「明暉園」は別にして、李方子さんを記念・顕彰するものが日韓双方にいまだ何もない。とくに日本側でそうだ。ごく一部の人たちが私的に関心を持ち、時に韓国を訪れ御陵に参拝しているくらいだ。
方子さんは歴史酌にみて日本の皇族から唯一、外国の王家に嫁いだ人である。ヨーロッパ諸国の王室ではよくあることだが、日本にはそれがなかった。その後もない。しかも彼女の嫁ぎ先は、日本支配によって消滅させられた朝鮮王朝(李朝)の旧王家だった。目本は彼女に政治的、歴史的重荷を背負わせたのである。
方子さんは昭和天皇の香淳皇后のいとこにあたる。日本の皇族方を含め、日本として何とか方子さんの記念事業がやれないものか。そうでないと日本はあまりに冷たいー。生前、方子さんのそばで長く仕え、自らも障害児の母である金寿妊さん(88)は日ごろよくそういって残念がっていた。命日にはささやかに墓前祭があるという。「誰か皇族の方にきていただけれぱいいのですがねえ」とまた残念がるのだった。(ソウル支局長)
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