日の陰りの中で 京都大学教授 佐伯啓思 倫理観見つめる「震災2年」 新聞にせよ、テレビにせよ、さらにはネットにせよ、いわゆる情報媒体への貪欲さに欠けるせいかもしれないが、私には、この2年で何かが大きく変わったような気がまったくしない。いうまでもなく東日本大震災から2年と1週間たっての感想である。 もちろん、2年やそこらで大きな社会変化も生じるはずはないのかもしれないが、その兆しもないように見えるし、いや、もっといえば、'地震後半年ほどの論壇、ジャーナリズムを舞台にしたあの「熱狂」はどうしたのだろうか。「熱狂」とはこの事態にそぐわない言葉ではあるが、あの半年は、「絆」やら「トモダチ」やら「創造的復興」などと、この大災害を語らなければ日本人にあらずといったような風潮であった。 2年がたってメディアにおいてもさまざまな検証がなされたりしているが、,総じての印象は、復興というにはあまりに遅々としており、原発事故の放射線除染にしても、事態はきわめて深刻だということである。むろん、復興と口では簡単にいうものの、容易ならざる事態であることは想像もつくし、想像を絶した大災害だったともいえるが、この2年を振り返れば、浮かび上がるのは何かわれわれの精神というか、倫理観のあまりの摩滅であるように思う。 一方では、2年たてどもいまだに生活の形も見えない人たちがいる。一家離散の憂き目にあっている人もいる。突然に家族を失った悲しみは年月の経過で消えるものではあるまい。いまだに行方のしれない人が2600人ほど存在する。避難所で疲れ果てて亡くなった人を含めれば、死者・行方不明者は、2万人を超すことになるのであった。 ところが、他方では、いわゆる「アベ・バブル」によって連日、株価はあがり続け、今日はどの株を買うのが得か、明日は何を売ればよいのか、次には土地と不動産だ、などという話でこの国は充満している。東北復興どころか景気の復興こそがわれわれの最大関心事になっている。たとえば、3月11日前後の報道番組でも思い出してみれば、「東日本大震災2年目の検証」などと称して被災者たちの苦難の生活を描き出したその次には、株価急騰、リーマン・ショック前の水準回復などといってはしゃいでいるのである。 もちろん、景気が良いことが悪いわけもなく、そもそも景気が回復しなければ復興財源もでてこないではないか、という理屈も成り立つであろう。しかし今ここで論じたいことは、カネをめぐるわれわれの懐具合の話ではない。カネが回ろうがどうしようが、,決して懐が温かくもならないあまたの人々を一瞬のうちに生み出したこの圧倒的な力からわれわれは何を学んだのか、ということなのである。 一方には、あの大震災の傷を負いつづけて生きる人たちがおり、他方では、その東北復興の資金に群がる人たちがいる。1年もたてば、人々の関心は「維新の会」へ移り、さらには自民党大勝から「アベ・バブル」という話に移り変わる。もっとも坂口安吾のように、人間などもとそんなもので、徹底的に堕落するのが良い、というも明らかに一面の真理なのであろう。 しかし、安吾はそういいながらも心の深いところに強い倫理観を宿した人物であった。彼は、戦争によって一度はご破算になった日本人の倫理的精神が、徹底した堕落の底からこそ、もう一度、立て直されることを期待したのであろう。 もとより、今回の大震災は、あの戦争とはまったく異なっている。しかし、戦争とは異なった形であれ、平和をむさぼる戦後日本人を襲ったとてつもない事態であったことには変わりない。われわれは、この自然の途方もない脅威を凝視しつつ、何の申し開きもなく生死を牛耳るあまりに理不尽な偶然性というものを組み込んだ倫理観を作り直していかねばならないのだ。 大震災の直後にも書いたことなのだが、ここで問われているものは、われわれの死生観や自然観であるように思う。戦後の日本人は、「生命尊重主義」「自由と平等」「人間の基本的権利」「平和主義」「経済成長主義」などの価値をほぼ無条件で受け入れてきた。そして、この大震災は、これらの価値に致命的な打撃を与えたのではなかったろうか。それではどうにもならないものがある。というより、人間の生の根本には、このような近代的な価値ではどうにもならないものが横だわっているのだ。 もともと日本人のもつ死生観は、近代的な人権思想と結びついた」生命尊重主義とは大いに異なるものであった。同じ生命尊重でも、死や無常の観念に発するものであった。またその自然観は、これまた近代主義的な、人が合理的理性によって自然を支配するという種類のものではなかった。自然はとてつもない脅威であると同時に、人を生かす恵みの源泉でもあった。人はいずれにせよ、自然のなかで自然とともに生きるほかないのである。 この自然を前提にして、人々が「共に生きる」社会の形も組み立てられてくる。「絆」とはとってつけたような流行語であってはならない。日本人の倫理的精神の立ち現れる場所には、こうした死生観や自然観がなければなるまい。もちろんそれは即席にできるものではないが、「復興」への道は、われわれの根底にある価値を、もう一度、探りあてる試行とともになければならないだろう。(さえきけいし) ```産経新聞H25.3.18 |