音に命あり バイオリニスト 干住 真理子 産経新聞H24.11.16
愛器を弾くたび拉致思う

10年前の秋、日本は喜びに沸いた。緊張した表情で飛行機のタラップからゆっくり降りる人たち、それは何十年も北朝鮮に拉致されていた方々だった。同じ年の夏、私自身は夢にまで待ち続けたストラディバリウスと運命的出会いをした。名器が来たという驚きと、拉致被害者が助け出された感動的映像が重なって私の記憶に深く刻まれた。

タラップから降りる様子を各テレビ局は生中継で映し出した。一人ひとりの表情に、不安、緊張、喜び、悲しみ、さまざま感情が克明に見てとれた。しばし呆然とタラップの上に立ち止まり、日本の地を見つめるそのはるかな表情に私は涙が込み上げた。

足元に視線を移し、自らの足で一歩ずつ日本の地に向かう姿に誰もが熱く心を震わせたに違いない。この時ほど、日本政府が頼もしく感じたことはない。突破口が開けた、そう感じ、私たちは次なる北朝鮮からの「帰国者」を待った。きっと次々に帰って来られる。「次は自分の番か」と、はやる心を抑えて順番を待つ人々を想像した。

しかし年月は冷酷に過ぎた。その間、ストラディバリウスの音は年々「製作されてから300年間も人目から隠されるように眠っていた楽器」は、解凍されるように生身を帯びてきたというのに、拉致問題に進展はない。

時折流される「被害者ご家族、悲痛な訴え」のニュース映像。政権が変わるたぴ私たちは「この人こそ、きっと助け出してくれる」と信じ、委ね、そして失望する。「忘れないで!」と懸命に訴える横田夫妻の姿がテレビに映し出され、自分の無力感をも感じる。

当時中学生だったあどけない少女・横田めぐみさんが拉致されてから15日で35年だ。長すぎる年月で、髪が白くなった被害者のご家族、普通なら穏やかな老後を、と周りの人間にいたわってもらって当然の年齢、冷たい雨にさらされながらも気丈に街頭に立ち、ひたすら署名を募る。

10年前に帰国された蓮池薫さんの「拉致と決断」を読んだ。つらい記憶を想起し必死な願いで書かれたものだ。突然男たちに囲まれ、殴られ、袋に押し込まれ、連れ去られた恐怖。全ての自由を奪われ、監禁・監視され続けた絶望の日々。スーパージェッターが助けに来ないかと本気で願ったという蓮池さんは故郷に酷似した丘を見つけ胸を熱くする。

タラップを降りる「あの時」もまだ子供たちが北朝鮮で人質状態にあった。記者の質問に安易に口が利けない。どれ一つとっても想像を絶する苦悩との闘いだ。しかしこのことは誰の身にも起き得たことだ。もし自分だったら、家族だったらと考えると穏やかではいられない。

バイオリンを弾きながら「この楽器が来て○年-」と思うたぴ頭をよぎる光景はタラップの上で立ちすくむ被害者の姿だ。このストラディバリウスを弾き続ける限りそれを忘れることはない。

今もかの地で「助けに来る」と信じて待つ人がいる。彼らを救えるのはスーパージェッターではない。政府しかないのだ。いま愛器で弾く「日本のうた」を一番聴きたいのはかの地にいる彼らなのではないか。そう思うと胸が締め付けられる。(せんじゅまりこ)



変化を遂げた。