小さな親切、大きなお世話

   
力が悪と見なされる国                作家 曽野綾子

クリントン元米大統領や、韓国の「現代グループ」の玄貞恩会長が、それぞれ北朝鮮に出かけて行って、人質になっている自国民や自社の社員を取り返してきたという話が報道されるたびに、
日本の拉致被害者の家族たちはどんなに無念な思いでいるかとお察しする。しかし政府の無能をなじるばかりでは、この問題が解決されるとは思わない。北朝鮮が日本を軽視するのはつまり力を量っていて、日本はあらゆる面で無力だと見なしているからである。

私は若い時から、途上国を旅して歩いているうちに、何度も力について考えさせられた。
今の日本では時々力があるということは、悪だと見なされる。現実にも、しばしぱ弱者といわれる人たちが強い場合さえある。生活保護を受けながら怠惰で働かない人を、国はどうにもできない。

しかし外国では、,力がなければ生きていけない。外国の町も修道院も、古来、城砦の形を取って身を守ってきた。商売も領土も力なしには守り切れない。力は使い方を間違えないという責任が厳しくつきまとうが、ないよりは当然あった方がいい。正義や人権を守るためにもあるぺきものである。

私のような個人が外国旅行をすれば、それを毎日端的に見せつけられる。外交官や会社の社長のような、特別な権力者は別として、一般庶民の個人旅行は、飛行機に乗るのも、ものを買うのも、ホテルに泊まるのも、常に小さな戦いの連続という観すらある。
力の第一のものは、腕力や戦力などの直接的力である。今は知らないが、昔の板門店の南北の共同管理区域では、見学者が北側の兵士に引きずり込まれたら、南側の兵士が腕力で取り戻す外はないのだと警告された。日本が拉致被害者を取り戻せないのも、つまりは北朝鮮が日本は戦力を行使できない国だと見抜いているからだ。武力は持ちながら使わないことしか、有効な原則はない。

アフリカなどを旅行していると、突然、予約をしたはずのホテルで「あなたたちの部屋はない」と言われることがある。理由はあってもなくても同じだ。ない部屋はないのである。後は個人的な戦いで部屋を勝ち取るかどうかだ。パスポートの間に10ドル紙幣を忍はせて渡し「もしかしてキャンセルは出てないかな」ととぽけて聞く。これが
2番目の力である金力による解決である。金の力は誇ってはいけないが、決して侮ってはいけない。国際社会の問題の、80%までは金力で解決する。

3番目の力は、人間力だ。嘘でもいいからその国の大統領と親しいとか、優雅な生活ぶりを匂わせたりすると有効な時もある。ホテルのフロントの女性にウィンクして「残念だなあ。今晩は君みたいな美人とコーヒーを飲みたかったのに」と囁く。するとないはずの部屋が出て来ることもある。

4番目、5番目の力として、最近は、徳の力、教養などを軽視できないようになった。一国の指導者が、国際社会でも抜きんでた強力な精神性、命を投げ出せる行動力、誰をも拒まない包容力、古典の素養、個人的な哲学、誰とでも,魅力的な会話をこなせる魂の自由人としての姿勢などを備えていれば、一国の力は違って来る。力がなければ自国民は守れない。力の暴走を防ぐには倫理が不可欠だ。どちらもないのは最低である。(そのあやこ) 情報源:産経新聞H21('09)8.28