第二次攻撃隊全国女学生号出撃
『新高山登レ』
日米交渉妥結の祭は、機動部隊に対して引き返しの命令が発せられることになっていた。十二月二日、機動部隊に引き返せの命令は遂に発せられなかった。連合艦隊司令長官山本大将より、祖国日本の生か死かの運命を決するところの「新高山登レ」の暗号電報を、機動部隊は受信した。開戦だ(新高山登レは、予定の如く攻撃を決行せよという意味だった)その頃、すでに先行していた潜水艦から、真珠湾の状況を知らせてきていたという。戦艦がどこ、そして各何隻といったあふうに、逐次、詳細な通報だった。艦隊はあ、速力を24ノットに上げて、一路南下しだした。攻撃が迫ったのだ。電波は、一切出してはならない。隠密の行動だった。十二月七日、日米交渉は、いよいよ失敗に帰したとのことだった。総員、飛行甲板に集合が命ぜられた。艦隊は、全速力で進んでいるため、甲板上は風が強い。「君が代」の斉唱が、強風とともに海原を圧し、続いて、艦長の訓示・・・・明早朝を期して、ハワイ攻撃を決行する、とのこと。夜の食卓についた。高速力のため、艦の動揺が激しく、食器が躍るので、それに気を奪われ”最後の夕食”だという感慨も湧かなかった。明日は早いので、各自、無駄話をする者もなく、それぞれ搭乗員室へ引き取った。私は、明朝着替える肌着類の準備をした。私物はすでに整理してあある。同室の山中隆三兵曹が遺書を書いている。先日、分隊長から、遺書を書いておくようにといわれたので、何回も書きかけたが、何も書くことがないような気がして、まだ書いていなかったので、「おれのも書いてくれ」そう頼む、「自分のは自分でかけ」素っ気ない返事である。仕方なく、机に向かって、何か書こうと思うが、どうしても書き出せない。とうとう面倒くさくなってベッドにもぐりこんだ。艦の高速と、その上、悪天のため、物凄い揺れ方だった。
撃前の訓
Z旗翻える
昭和十六年十二月八日。午前零時、総員起こし。どやどやと、ベッドから飛び出した。どの顔も、どの顔も、みんなニコニコ微笑をたたえている。昨夜までの時化は、いくらか収まったらしい。だが、波のうねりと風はまだ強い。母艦のまわりはあ風速15〜17メートルの強風。暁闇のなかに南海特有の大きなうねりが激しく母艦の舷側を打つ。十メートル以上もの甲板にまでも、白い滝のようなしぶきが打ち上げてくる。海上はまだほの暗い。巨大な空母も、大自然の前に木の葉の如く、前後左右にまた上下に大きく揺れ動く。傾斜は15度ないし20度か。
朝食は素晴らしかっ。三大節以上のご馳走だった。出陣を祝う主計科の心尽くしだ。
食事を終って、飛行甲板に上った。断雲の間に、月が残っていた。甲板上には、翌端を触れ合うように飛行機が並び、試運転の轟音がとどろいていた。わが加賀の第一次攻撃隊は、雷撃機十八機、水平爆撃機九機、戦闘機十八機である。出撃する搭乗員の白鉢巻が、夜目にもくっきりと浮かんで、きびきびと動いている。
搭乗員整列」「搭乗員整列」拡声器が伝えている。艦橋指揮所前に集合し、このときとばかり、きびきびと、しかし落ち着いて整列した。艦長山田丑衛大佐以下、艦幹部の顔は「緊張している。橋頭には、Z旗とともに戦闘旗があ風にはためいていた。
皇国ノ興廃カカリテ此ノ一戦ニ在リ、粉骨砕身、各員ソノ任ヲ完フセヨ。連合艦隊司令長官 海軍大将山本五十六」黒板に大きく書いてある。「本職より既にいうべきことはいった。只、この上は諸子の健闘を祈る」艦長の訓示は簡単に終った。母艦は転舵し、北よりの風に艦首を立てた。午前一時三十分。第一次攻撃隊の発艦が開始された。身軽な零戦隊が最初に発艦する。一機、また一機と発艦する機を、見送る総員は、
腕も折れよとばかり帽子を打ち振る。・・・・・・・・・・・・
戦争は日本だけが決して悪いのではない「非は双方にあるのだ」と思う。日本の総理大臣も、靖国神社の祭礼に公人として参拝してしていただきたいものである。

そうすることこそ平和日本の国民の義務ではないだろうか。

 われわれは戦った。そのわれわれ自身が信じていた大目的は、平和を得ることであり、祖国同胞を安泰のうちに繁栄させんとする、ただそれだけであった。

北辺、南冥の大空に、あるいは地の果てに、不幸にして散っていった、多くの友達は、遥かなあの世に在って、必ずや幸せな生活を、平和な月日を同胞が送り迎えていることを信じているに違いない。

非才に鞭打ちながら、激励の数々に支えられ、ようやく成った本書を、先ず、大空に散華した亡き戦友たちの霊に捧げたいと思う。

昭和五十五年元旦    
 山川新作(元海軍飛行兵曹長)
「リメンバーパールハーバー」・・・・「忘れるな 日本はなぜ真珠湾を攻撃したのか」
ハワイ第二次攻撃隊急降下爆撃隊、生き残りパイロットの証言
(急降下爆撃隊・山川新作著から

急降下爆撃隊・山川