平成21年(2009年)1月19日 月曜日 福沢諭吉の「親学」のすすめ エッセイスト 木村 治美 「教育勅語にはないもの 親学推進協会は3年目に入った。日本財団(笹川陽平会長)の財政支援もいただき、20人ほどのクラスの講座を開くなど、地道ではあるが、全国的に活発な活動を展開している。とりわけ、「子育て」を終えた中高年者を対象に、子育てのアドバイザーとなっ、てもらう養成講座には期待がもてる。 親学とは、普及用のパンフレットの表紙「親が変われば子供も変わる」からもわかるように、単に、子育てのノウハウを教えるものではなく、親自身に自省と自覚を促すことに重点が置かれている。 そういう視点から、ある事実に気がついた。明治23年に発布され、戦前の教育の根幹をなしていた教育勅番には、親学の意味するものに合致するお言葉、「親は子供を慈しみ育てなさい」の教えがないのである。 教育勅語ではまず忠と孝が教育の淵源(えんげん)として明記されるが、それにつづくのは「父母二孝二兄弟二友二夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆二及ホシ」である。人間関係の基本が網羅されているのに、なぜ「親は子を愛せよ」が書かれていないのだろうか。親が子を愛するのは本能だから言及するに及ばないのか。それとも礼を重んじる儒教の影響を受けており、すべては上向き目線になっているのか。そういえば、親孝行 や親不孝に対応する漢語は見当たらない。 夫婦に始まる家庭教育論 福沢諭吉が、子供を大切に育てよという意味のことを書いていると耳にしたのを、古い記憶の中にさぐりあて、調べてみた。「中津留別(りゆうペつ)の書」がそれのようであった。留別とは、去る者が残る者に留め置く言葉の意である。 福沢は母親を東京に連れてくるため中津(現在の大分県)に戻ったとき、故郷の人びとにこの書を残した。明治3年のことである。字数にして4000字ほどの中に、この時代によくぞこれほど先進的で、自由闊達(かつたつ)な考え方を披瀝することができたものだと驚く。 自由独立の人間こそが家をも国をも守る基本であること、がまず明言される。つぎは、「人倫の大本は夫婦なり」とあり、夫婦は一夫一婦であるべきだと、言葉をつくして強調する。「孔子様は世の風俗の衰えを患いながら、細君の交易にはそしらぬ顔にてこれをとがめず」と論語を引きあいに出して疑問を呈している。 一夫一婦を説くところからすでに家庭教育論は始まっているようなものだが、いよいよ親子の関係にふれ、これに一番多くの分量がさかれている。普通は親孝行の大切さに絞られるものだが、中津留別の書はちがう。「親に孝行は当然ながら…余念なく孝行をつくすべし」とのみ短く述べたあと、こうつづく。 「世間にて、子の孝ならざるをとがめて、父母の慈ならざるを罪する者、稀なり」 意訳すると、世間には子供が親孝行でないととがめる者はいるが、父母が子供を慈しまないのを悪いことだと非難するひとは少ない、となる。 つづいて、 「(子は)天より人に授かりたる賜なれば、これを大切に思わざるべからず。父母力を合わせてこれを教育し…両親の威光と慈愛とにてよき方に導き…一人前の人間に仕立ること父母の役目なり、天に対しての奉公なり」 「子を教うるの道は、学問手習はもちろんなれども、習うより慣るるの教、大なるものなれば、父母の行状正しからざるべからず」 現代の親への苦言を読む すべてを引用することはできず残念だが、言行不一致の不正な親に育てられる子は、孤子(みなしご)よりもなお不幸だといっている。 また、子を愛してはいるが、一筋に自分が欲する道に入らしめんとする者があるが、結局その手の心を病ましめてしまう。身体の病を患うるのに心の病を心配しないのはおかしな話だ、とも書いている。受験勉強に狂奔する現代の親への苦言にもつながる。 子供の教育について語るとき、諭吉はつねに「父母」「父母力を合わせて」と書いている。また、慈愛なる語のほかに「両親の威光」なる表現があり、現代の親の在り方を考えるとき、とりわけ諭吉のまっとうな精神に感服する。 「中津留別の書」には、このあと西洋の書を読み、国を守るべき心得などが指示され、2年後の『学問のすすめ』につながるのであるが、家族の在り方にもっとも多くの字数が費やされている。すべてを紹介はしきれなかったが、福沢諭吉がこれを書いたとき35歳。親の在り方について驚くほど完成度が高い。親あ行一点張りのあの時代に露っては意表をつくものであったろう。親学のルーツを探しあてた気分である。 (きむら はるみ) |