「産業計画会議」を主催し国に勧告
日本に帰った安左エ門の体はますます忙しくなった.安左エ門は欧米の見学をもとにして、これからの日本を再建するにはどうすればよいか、財界人に説いてまわった。 今後新日本発展にはどうすればよいかを考える会が必要だと力説した。 安左エ門の話を聞いた人は皆賛成して呉れたものの、さてなかなか動き出す様子も見えない、 こんなことでは日本の再建はおくれるばかりだ、 「よし俺が最後のご奉公に国造りをやろう」 安左エ門は各方面の人人に呼びかけて、「産業計画会議」を作りあげた。 昭和三十一年(一九五六)三月十五日創立にあたって、集った各委員を前に安左エ門は次のよ うに語った。
「私が産業計画会議を思い立ったのは、各界の造詣の深い方々から、その知識と経験をお借りして、我が国産業経済の動向と、産業拡大の規模について、深い調査と研究を進め、日本の産業は 如何なる姿のものにならなければならないのか、その理想的形態に到達するにはいかなる国民的 努力が結集されなければならないか、などについて一応の目安と見通しを持ちたいからである。」
安左エ門が一番心配したのは、労使間の対立で、独立国となった日本は、ここで大きな目的と目標のもとに、一日も早く産業計画を立てて、戦争で破壊された工場や会社を新しく建て直さねばいけない。 官庁はすべてセクシヲナリズムで官僚統制から抜け出せないでいる。
政府と民間の指導者間に十分な話し合いが出来るような会議を一日も早く持つことが必要だ、安左エ門のこの国造りの呼びかけに集った委員は次の人人で、ほとんど当時の日本の一流財界人、学者、学識経験者が集まった。
この会議で安左エ門が果たした仕事は、彼の電気王の生涯に有終の美をかざるにふさわしい、特筆大書される偉大な業績で、後世日本の歴史に大きく評価される事であろう。 この産業計画会議こそ、日本に出釆たシンクタンクの草分けと云ってよかろう。
(常任委員)内田俊一、大幡久一、木内信胤、島 英雄、永田 清・
(委員)安芸鮫一、浅輸三郎、鮎川義介、有沢広巳、安藤豊禄、池田亀三郎、石坂泰三、石山賢吉
音、稲葉秀三、井上五郎、内ケ崎賛五郎、内海清温、太田垣士郎、大屋敦、大山松次郎、奥村勝蔵、小野田清、小汀利得、亀山直人、賀屋興宣、茅誠司、川北禎一 木村弥蔵、倉田主税、久留島秀三郎、紅林茂夫、小林中、嵯峨根遼吉、桜田武、迫静ニ、佐竹次郎、佐藤篤二郎、島田兵蔵l自洲次郎、清水金次郎、菅礼之助、鈴木訂一、鈴木祥枝、関四郎、十河信二、高井亮太郎、高橋亀吉、高橋三郎、竹俣高敏、田代寿堆、多田耕象、千葉三郎、辻妙吉、中川哲郎、、永田竜之助、
、水野重雄、中山伊知郎、新関八洲太郎、萩原俊一 橋本元三郎、原邦道、平石栄一郎 福田勝治 藤波収、堀新 松根宗一 万仲余所治、水田三喜男、宮尾保、宮川三郎、三宅晴輝、矢萩富吉 山際正道、山田勝則、山田昌作、山本重雄、脇村義太郎、渡辺一郎。
(事務局長)前田 清
産業計画会議の常任委員会は毎週一回開かれた。安左エ門は必らず出席し、委員から出された各種のプランに対し、将来の日本に取って、何が一番大切か、急いでやらねばならぬ重要問題は何かを検討し、これに対してあらゆる角度からの研究を追求した。安左エ門は生涯通じ、毎日の新聞の記事を切抜き、スクラップすることを止めなかった。
あらゆる社会の各方面に毎日起こる現象を追求し研究する旺盛な精神力は安左エ門の天性であり、九十七歳の生涯を通じて、頭脳が明晰であったことは、修錬によって磨きあげた天分であっ た。産業計画会議は安左エ門の議論を中心に展開し、研究はつづけられた。半年後に当時日本で一番急がねはならぬ第一案が発表された。
◇産業計画会議第一次勧告(31.9.14
「日本経済立直しのための勧告」
○エネルギー源の転換
○脱税なき税制
○道路体系の整備
安左エ門が産業計画会議を作った時から、政財界の人やジャーナリズムの間に<何をやるつもりか>と半ば期待を持たれていただけに、発表された内容の斬新さと発想の奔放さに驚いたマスコはいっせいに報道した。 それまでマスコミでは、「エネルギー革命時代来たる」と今すぐにも原子力時代が来るように騒ぎ立てていた。安左エ門はこれに対し、むしろ石油時代になることを予告し、原子力時代は二十年先、石油や安い重油を使うことを勧めたのである。
政府でもこの勧告を高く評価し、意見を取入れて、道路政策や税制についても予算に組込み、輸入エネルギーのための外貨の輸入わくを多く取らざるを得なくなった。
◇産業計画会議第二次勧告(32.1.16)
「北海道の開発はどうあるべきか」
昭和二十五年にいち早く、北海道開発庁が内閣直属で設置され、二十五年に開発五ケ年計画は決定し、政府でも北海道開発に関してはしては重点的にとりあげていたが、会議案は基本的に発の転換を求めたものであった。北海道庁ではすぐに反論を発表した。しかし雪の博士で有名な中谷宇吉郎北大教授は「北海道開発に消えた八百億円」の論文を「文芸春秋」に発表し過去の開発計画の誤りと松永案への賛成を発表し、朝日、毎日、北海タイムスなどいずれも計画会案に賛成する論説を掲載した。
この案を発表する前に安左エ門は実際に自分の目でたしかめるため、鈴木貞一、島英雄(当時国鉄技師長)関四郎(当時国鉄電気局長)氷山時雄、井上繁(秘書)を同行し、DC3型機チャーターし四時間にわたり空から北海道を視察した。 翌日も北日本航空のチャター機で、再び空から三時間の予定で視察したが、安左エ門は、空の上で「あっちへ行け」「こっちへ行け」と注文を出し、予定の時間を一時間もオーバーして飛 びまわった。
このように慎重に調査の上に作り上げた計画案が、大きなセソセーシヨンを巻きおこしたのは当然である.つづいて出されたのが、
◇産業計画会議第三次勧告(三三・三・一九)
「東京 − 神戸間高速自動車道路」について
産業計画会議第二・三・四次勧告
この高速道路については、中央道路(政府案がすでに進行していたので、産業計画案との間にややこしい政治問題が起こった。産業計画委員会は、九百七十一人の延人員を動員し、実地調査をし具体案として、計画会議案の方が土地買収費が安くすむ上に、海岸高架路線案等を示して、中央山岳地帯の開発も必要であるが、より利用度の高い東海道を優先的に着手することを主張した。 この第三次勧告ほやがて政府も実行に移し、現在の東京−神戸高速道路が生まれたのである。
◇産業計画会議第四次勧告(三三・七・三)
「国鉄は坂本的に整備が必要である」
@新線建設の全廃赤字路線の撤去駅の合理化C自動車業を兼業せよ全線の複線化運賃の合理化国鉄経営にっ自主性を与えよ等で、要は国鉄分割論のため、各界に賛否をまきおこした。国鉄の赤字は年年大きくふくれるばかりである。今日の朝日新聞(五四年二月三日)の朝刊に「運輸政策審議委員国鉄地方交通問題小委員会」の報告書案を公表しているが、この案をみると全国一八三の赤字ローカル線の切り離し案を発表している。私は二十一年前に、これらの勧告を国鉄につきつけた安左エ門の先見の明を今更のように思い出した。
役所や役人のやることは万事この調子で、二十年前に安左エ門の勧告に従っていれば、天文学的数字の赤字は早く避けられたのである。 安左エ門の勧告は、民間人の企業精神により、企業性と自主性を強化し、近代的、合理的な経営を行うことが、鉄道本来の輸送力強化につながることを力説した。国鉄の赤字は今日もなお続いている。
◇産業計画会議第五次勧告(三三・七・三)
「水問題の危機はせまっている」
日本は世界中で一番水に恵まれた国であるのに、利用法が間違っている為に、農業用水、工業用水、飲料水とも不足してきた。 その原因は何か、各省の勢力争いや、お互いの所管の主張ばかりで、これでは何十回審議を重ねても治水、利水、水資源の総合性の確保に統一した見解がえられず、いつもうやむやに終っている。
これに対し産業計画会議は、@主要河川の水利権は国が持つことA慣行水利権の見直しB公共事業上の問題点C工場の地下水の汲み上げ禁止などの法的措置や利根川、天竜川、鬼怒川、木曽川各水系の利用方法などについてもその変更を求めるなど、今日の日本にとって重要な「水問題」の高度利用法と、その至急解決をせまったのである。これには具体的に膨大な資料が添えて出されたので、農林省に大きな刺激となったことは云うまでもないが、水空キキンが来ないと役所の目は覚めそうもない。
◇産業計画会議第六次勧告(三三・一〇・ニ二)
「あやまれるエネルギー政策」
現代において産業活動、文化生活は沢山のエネルギー消費なしでは出来ない。日本の生産をこ
れ以上に引きあげるには、より一層エネルギー消費を必要とする、そのためにも国は真剣にエネルギー問題に取組む必要がある。
今までの間違っていた我が国のエネルギー政策を次のように改める。
@できるだけ安いエネルギーに変える
Aエネルギー価格は石炭ベースによって決定されているのを改める.
B石炭と石油は自由に競争させる
C原子力を現段階で折込むことは危険である。
Dエネルギー価格は輸入原油ベースに直す
E石油に対する外貨割当の制限綬和
これは原油輸入の自由化によって、石炭にかえるので、再び油主炭従問題としてジャーナリズムを賑わしたが、この実の実現化によって九電力会社は電力設備の近代化を推し進めることが出来たのである。 おかげで国民は今日安い電気を自由に使えるようになりその結果クーラーや冷蔵庫や洗濯機が急速に各家庭に普及した。
◇産業計画会議第七次勧告(三四・七・二九)
「東京湾二億坪埋立てについて」
東京の人口増加に対する悩みの解決策として、東京湾三億坪の内二億坪埋立てて、工場敷地、
住宅、交通の問題を解決しようとするので、埋立地の中に飛行場、貿易センター、官庁用地、自動車専用道路(高架又は地下式の幹線道路) これに対する工業用水、水道用水は利根川から送水することにする。
これを実施するには、政府・民間各50%出資の特殊会社を設立する.この費用総額は四兆円、実行にあたり調査費四十億円は国家が負担するという雄大な計画でこれが実行に移されていれは成田空港の騒ぎも起こらなかったと思う、成田は出来ても拡張の余地がないので再び東京湾埋立案が政府で考えられている由、まにあわなくなってからいつも後手にまわるのが政府の政策である.
◇産業計画会議第八次勧告(三四・七・ニ九)
「東京の水は利根川から − 沼田ダムの建設」
東京は三十四年現在大部分多摩川の水を使い、足りないところを相模川からもらっている。しかし人口の増加と共に一日も早く手当てをしておかないと、仝都に水洗化された場合、到底現在のままではまかないきれない。 そのために政府は一日も早く、利根川開発庁を政府機関として発足させ、利根川本流の岩本地点に高さ一二五メートルのダム(沼田ダム)を造り、これにより五十年代の水ヰキンは解消出来る。沼田ダムにより2200戸の人家と一、ニ00ヘクタールの田畑が水没するが、これらは芦の湖の四倍になる湖面と付近の温泉地などとくみ合わせ観光地の産業で吸収するほかに、農家は赤城山麓に新しく田畑を開拓して収容する。
またこのダムにより一三〇万キロワットの発電所を建設する。水の必要は空気についで大切だが、これはその土地の周辺の大衆の反対もあり仲仲進まないようである。しかしこれは必ずやらねばならない問題で、水キキンになってからでは遅いのである。
@設備投資のための自己資金の必要。
推移は度の改正に大切なの設備投資のための自己資金の必要。
A近代化のための設備更新。
技術革新に即応する新技術の導入。
この勧告にみられるようなことは、若い時から安左エ門がいつも実行して来たことで、安左ヱ門が九州の一角から攻め上り、日本の電気界の王座につくことが出来たのもこれらの三つをつねに企業の中に生かしていたからで、特に技術者を大切にし研究所を作ったのも業界でいつも彼が草分けであった。
◇産業計画会議第十次勧告(三五・二・二五)
「専売制度の廃止を勧告するー専売公社の民営、分割は議論の時代
ではない、実行の時代である」 煙草、塩、樟脳、アルコール専売制度の廃止と煙草専売公社を民営にすること、直ちに三つか四つの民間企業に分割払い下げをして、民営にし、財政的にはビールのように消費税を取り立てたらよい。この勧告は今でもよく新聞や雑誌に取上げられる。特に煙草は百害あって一利なしと云われているのであるが、役人は一度特権を握ると仲々手放したがらないもので、この勧告に対してもあらゆる言論機関は賛成しているのに専売公社は煙草耕作人が失業するなどと、言を左右にして今日もなお反対している。
◇産業計画会議第十一次勧告(三五・一ニ・一五)
「海運を全滅から救えー海運政策の提案」
戦前、米英についで世界第三位の海運国であった日本は、戦争によりはとんど全部の船を失った。ぞの後政府は「計画造船」策をとり三二年頃にははぼ戦前の水準に回復したが、海運業は無配つづきで、資金の償却も出来ない。このままでは海運界は存立できるかどうかに追いこまれている。これを救わないと日本の貿易に大きなマイナスとなる。いくら物を作っても、これを運ぶ船が外国船では、万事がうまくゆかなくなる。海運界最大の急は、金利の負担であり、これを改めて経済改善策を打出したのがこの勧告であった。
この勧告に対し、政府は三年後の三十八年の七月「海運業の再建整備に関する臨時措置法」「外航船舶建造融資利子補給及び損失補償法」「日本開発銀行に朗する外航船舶融資利子補給臨時措置法の一部を改正する法律」の海運再建法を公布し、計画案勧告にこたえた。 このため日本の海運界はようやく独立企業への道が開かれた。
◇産業計画会議第十二次勧告(三六・七・二〇)
「東京湾に横断堤を」
もしも東京湾に伊勢湾台風(三四年九月)なみの風速40メートル、高さ5メートルの高波が満潮時に起こったら、江東、墨田、江戸川、葛飾、足立の五区は全部浸水し、台東、荒川、北、板橋、大田、中央、千代田の七区でも一部浸水となり、約五千億円の被害額を受けよう。
これを避けるために、川崎−木更津間十キロの間に5メートル高さ、天瑞幅ニ00メートル、海底28メートルの防潮堤を作り、木更津側は一キロの橋梁、川崎側は一キロの海底トンネルを結び、その一手ロ間はそれぞれ航路とする。
この案はニューヨークのポートオーソリティを手本にして考えられたもので、空港、港湾運営や道路、都市経営の立案など一元的に実施運営するように勧告したもので、日本の統一されてない行政の欠陥の是正を求めたので翌三十七年八月に、安左エ門は吉田茂(元首相)と相談し、この道の権威であるP・H・ヤンセンJJ、ドロンカースなどを日本に招き、詳細な調査を依頼し、九月には両人から調査の報告書が出ている。
このように日本を災害より防ぐため、いろいろデーターを集めて政府に勧告しているので、政府でもその重要さは認め、建設省では一応懸案事項としたものの、経費其他の事情で実現はおくれている。
昭和五十四年九月二十日の、読売新聞朝刊に五段抜きで「『東京湾横断道』着工急ぐ」という大きな見出しを発見した。 私は産業計画会議の勧告がやっと第一歩を踏み出したことを知った。勧告案が出てから十八年目であるが、とまれ地下の松永先生も定めし喜んでいられる事と思う。その一部を次に、
「東京湾横断道」着工急ぐ
来年度から本格調査、完成まで10年必要、東京湾のほぼ中央を横切って禅奈川県川崎市と千葉県木更津市を横にトンネルで結ぶ「東京湾道路」計画について建設省と日本道路公団は、来年度、川崎市に調査事務所を開設し、ボーリングによる本格的な地質調査を開始する。これと並行して設計調査も行うこととしており、建設に向けての最終的な調査段階に入る。建設省、道路公団としては、五十六年前半までに調査を終了し、できれば五十六年中の着工を目指す。一方東京、神奈川、千葉、川崎などの首長による「六都県市会議」 (首都県サミット)も十一月に二回の会議を開いて、首都改造問題にかかわるこの東京湾横断道路計画を前向きに取上げる方針であり、総事業費一兆円といわれ、一時は凍結状態にあったこの超ビッグプロゼクトも、いよいよ実現に向けて動き出そうとしている。 建設省の計画では六車線、一応着工から完成まで十年を予定。
道路と併設する形で新交通システム(モノレールなど)による大量輸送も検討されている。−来年度は横断道路を建設するうえでのカギとなる地質調査を行うため、ボーリング経費、調査事務所開設などを含めて、今年度より四億円増の十一億円を要求している。東京湾道路は木更津と川崎を結ぶだけでなく、現在建設が進められている東京湾岸道路と一体に考えられており、これによって、
@房総の地域開発が進む。
A東京・禅奈川の大幅な交通緩和がはかれる。
B過密の東京湾で一定のルールによる海上交通を実現するーーなどのメリットが期待されている。
東京湾横断道路計画は三十六年に構想が浮上、オイルショックで凍結状態になったものの、その後第三セクターによる「東京湾道路株式会社」を設立する寸前まで行って見送られたいきさつがある。しかし五十一年からは道路公団に調査室が開設され、事前の準備が進められている。(以上読売新聞より)
◇産業計画会議第十三次勧告(三九・三・四)
「産業計画会議の提案する新しい東京国際空港案」
この頃運輸省では羽田国際空港が狭くなったので、新しい空港作りで審議会にはかった.その答申として、四十五年迄に七〇〇万坪の空港を作ること、候補地は@千葉県富里村付近A同浦安沖B茨城霞ケ浦周辺にあげたが、いずれも住民の反対にあった。
産業計画会議では
@気象、環境条件が良好なところ。
B連絡用道路の建設が可能容易なところ。
C必要な広さの土地が得られ、工事上の難点が少いこと。
D地盤が滑走路及び空港施設建物の重量に耐え、将来不等沈下をおこすおそれのないこと。
E周辺の市街、住宅に悪影響が少いこと。
以上を条件として考えられる新東京国際空港は、東京湾内中北部海域(木更津、幕張沖)東京東部(八街、富里地区)東京西南部(厚木、相模原地区)など数多くの候補地について直ちに技術的調査と、経済的な検討を行うことを勧告した。
政府は四十年六月新東京国際空港公団を発足し、それまで候補地でなかった成田、三里塚に新空港を作ることを決定した。面積は二、三〇〇万u(七〇〇万坪)を縮少して、一、〇五〇万u(三ニ○万坪)五十三年四月にやっと開港したものの、ニ年後の今日ではすでに手狭で、東京湾を埋立て現在の羽田空港を大きくして、などの声が出ているのも皮肉である。これは十年先を考え計画を立てない役人の怠慢である。
◇産業計画会議第十四次勧告(四〇・二・一〇)
「原子力政策に提言」
将来のエネルギー源といわれる原子力発電については、多くの解決されなければならぬ問題がある・政府にはっきりした政策を求めるとともに、原子力開発では国際協力がなければ困難なので、利害の一致した相手国を定めて、対等の立場で協力する必要がある.国は今後十年間に五〇〇〇億円程度の研究費を出すことを要望した。
産業計画会議の勧告は以上の十四回で終っているが、産業計画会議は、この間にも経済企画庁の依頼を受けていろいろの調査研究を発表している。
「吉野川総合開発調査」 (三七年三月)
「フランスの経済と経済調査」 (三八年三月)
「本土・四国連絡の基本方向に関する調査書」 (三八年三月)
「公共投資の部門別配分基準」 (四〇年三月)
これらの調査研究が政府機関から依頼されていることをみても、安左エ門の主宰する産業計画どんなに優れたスタッフを集めていたかをよく物語っている。そしてその母胎に電力中央研究所があったから出来たので、電研を作り上げた安左エ門が、常に十年二十年先を見て物を考えるという偉大な頭脳から生まれたのであった。
巨星隕つ
こうして産業計画会議を主催して多忙な安左エ門は、その間に東南アジヤ経済協力会関係者二十人を東京会館に招待して、協力会の強化につき憩談会を開いたり、黒四ダムの発電所の視察旅行をしたり、伊勢湾台風があれば、一年後にその被害復興状況禍査に出かけたり、またある時は四国と本土との間の、本四架橋予定地点、中四送電線を視察に出かけた。その間に色んな茶会にも出席する。また農業に関しても深い関心を持ち、農電研究所実験農場予定地、赤城山麓地帯の視察旅行に出かける。またライシャワー駐日大使に会見を申し入れ、「自然保護と観光開発研究のために、専門家をアメリカから派遣してほしい」と依頼するなど、思いついたことは直ちに実行に移すのが若い時から安左エ門の一貫した性分であった。ライシャワー大使の斡旋で、アメリカ内務省国立公園監督官ジョン・J・モズーリが日本にやって来て、富士山や裏磐梯、赤城山、榛名山などを視察し、帰米後報告書を安左エ門のところへ 送って来た。この貴重な報告書はのちに産業計画会議から発表されている。
幾つ体があっても足りぬ程忙しい生活をしながらも、郷里のこととなると長崎県人会長を引受けたり、ふるさと壱岐人の集まりである雪州会長として、年一回の総会には出席して、若い者を集め講演することを楽しみにしていた。これが電力中央研究所の理事長として、また産業計画会義主宰者として、毎日多忙な日々を送つていた間を縫っての安左エ門の仕事である。その超人ぶりは想像外で、青壮年ならともかく、九十歳を超えた安左エ門のタフぶりと明敏な頭脳には皆舌をまくばかりだった.
毎年十一月二十三日勤労感謝の日には、小田原の松永記念館で特別展観を開き、多くの人々を招待し、元気な姿で旧知の人に逢うのは、晩年の楽しみの一ノつであったようだ。戦前、安左エ門はジャワ・スマトラの水力発電の可能性を研究していたが、この時の安左エ門の研究は戦中、戦後とつづき、現在のアサハンダムの実現完成に、いろいろな面で大きな協力アドバイスとなって実現したのである。
次の一文は安左エ門の死を惜しんでインドネシヤ外務大臣からよせられた追悼文の一部であるが、安左ヱ門の東南アジヤに対する陰のカをよくあらわしているので転載させて頂いた。
アサハンの絶大な可能性
インドネシア外務大臣
アダム・マリク
わたしは友人を通じて松永翁に紹介されました.わたしは非常に興味を持って翁に近づきましたが、それには理由がありました.私は、すでにこの老人をめぐるさまざまな話を聞いていたのであります。ひとつには翁が日本の電源開発の父と見なされていたこと、それからアサハソに巨大な発電所をつくるという構想の主唱者であったことなどが、翁と知りあいになりたいという気持を起こさせていました。
アサハンの近くで生まれたインドネシア人としてのわたしが、アサハン計画に対する翁の熱意に関心を持ったのは当然であり、何が翁をこの計画に引きつけたのか、その熱意の実体はどのようなものかを知りたいと思いました。翁が語られたところによれば、日本が戦争に没頭していた時代においても翁は、当時アサハソ関係の資料を提供してくれそうなあらゆる知識人と連絡をとるべく、絶えず努力を続けておられたようである。わたしは翁の話し振り、身の動き、夢を話すときの様子を注意深く見守ったが、アサハンの絶大な可能性について話すときには必ずその眼が輝いていました。すでに老齢であったか、精力が盗れ、その決意はゆるがしがたいように思われました。わたしが将来における発電所の効用、コスト、利益などに関する質問を発するにつれて翁の感情は益々高まっていき、自分の構想がインドネシア将来の発展に、間違いなく寄与するということにゆるぎな
い確信を抱いていられました。 この会談の中で翁はそのプラン、図表、あるいはスライドを示してくれましたが、その結果、わたしは翁のプランが単なる利益追求を企画したものではなく、もっと高尚な理念から生まれていることを確信するにいたりました。インドネシアの近代化に必要な開発のための基盤、それがこの電源開発にかける翁の期待だったのであります。(以下略)
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アサハンダムの出現によって、北スマトラの電源開発、安い電力を使ってのアルミ精錬・石油資源採鉱を三位一体とする安左エ門の壮大な開発計画はいま実現し、インドネシアの経済を発展させつつある。これを地下の安左ヱ門は定めしほほえんで見守っていることであろう。
昭和三十一年六月安左ヱ門は外務省顧問として、鮎川義介、工藤宏規、山田勝則等とインドネシアに行き、タイ国を経て帰国したが、この時も後で「ソンクラに運河開発」の協力をタイのタノム首相に進言している。
昭和三十七年(一九六二)安左ヱ門は八十八回目の誕生日を迎えた。この喜びを東邦電力の旧部下で作っている「松泉会」の主催で、米寿祝賀会が開かれた。 当時の松永安左ヱ門の政財界における隠然たる地位から見て、帝国ホテルあたりで開かれてもおかしくないのに、場所は電力中央研究所の事務所がある大手町ビルの屋上というのが、いかにも安左エ門の性格をよく物語っている。時の首相池田勇人は安左エ門の肩を抱くようにして祝辞 をのべた。
池田首相の発言で「松永記念科学振興財団」を提言し、小林中、永野重雄、木川田一隆という有力財界人の賛同によってこの案は実行に移された。これは生渡技術者を大事にし社員を登用した安左ヱ門の米寿の会にふさわしいプレゼントであった。案で広く財界人から浄財を集め、毎年毎年すぐれた研究発見をした若い学者、科学者に研究費として賞金を贈る制度で、翌年の十二月一日の誕生日を第一回として、松永科学財団の贈呈式が行われた。
昭和四十五年第八回の贈呈に出席した安左ヱ門は祝辞をのべ、式後カクテルバーテイで表彰された青年学者と元気に語り、いかにも楽しそうであったが、それか安左エ門の最後の誕生日となってしまった。
翌年の誕生日をまたず、昭和四十六年(一九七一)六月十六日午前四時二十六分、四谷信濃町の慶応病院の一室で安左ヱ門は九十七歳(数え年)の波瀾の生涯の幕をとじた。
政府から連路があったが、遺族は安左ヱ門の遺言を守り、賀屋興宣(元大蔵大臣)を通じ辞退 意志を伝えた。そして堅く遺言を守り葬儀其他一切行われず、法号もない。墓は埼玉県の平林寺にあり、先に亡くなった一子夫人と仲よく並んでいる。
新聞の見た安左エ門の死
安左ヱ門の死に対して、当時の新聞に出た記事を二三、参考までに転載してみよう。昭和四十六年六月十六日「朝日新聞」夕刊
松永安左ヱ門氏
電力中央研究所理事長松永安左ヱ門氏は十六日午前四時二十六分、肺真菌症のため東京・信濃町の慶応病院で死去した。九十五歳。告別式と葬儀は故人の遺志によりおこなわれない。埼玉・新座市の平林寺に埋葬される。自宅は神奈川県小田原市板橋五一七。長崎県出身で、明治、大正、昭和の三代を電力事業ひと筋に生きた電力業界の長老。四月十八日に入院するまで、毎週一度は、東京大手町の電力中央研究所にかよっていた。
明治三十一年に慶応大学を卒業。福沢諭吉の推薦でいったん日銀にはいったが、四十年から電力事業に乗出し、九州電灯鉄道会社から電気協会会長になった。大正十年には関西電灯と合併して東邦電力を創立、のちに社長となって東京電灯の小林一三氏とともに電力だけでなく財界の実力者となった。 昭和十四年に第一線から引退したが、戦後七十五歳の二十四年から、電気事業再編成審議会委員長として、現在のように全国を九ブロックにわけ、融通しあう民間電力会社制度をつくりあげた。
一貫して反官僚の態度をとり、昭和十二年に「官吏は人間のクズ」という舌禍事件を起こした。タバコ民営論者としても知られ、また三十六年には、埋立てによる東京湾再開発、首都圏の水ガメとしての沼田ダム開発などを政府に提言している。民間の経済研究機関、産業計画会議の委員長も勤めていた。
箱根山中の「老樺山荘」に住み、茶人「耳庵」としても知られていた。重文級の名器をもち、「折りにふれて」 「人造り国造り」などの著書がある。 昭和三十九年勲一等瑞宝章をおくられた。
松永安左エ門氏を悼む
松永さんは天寿をまっとうされた。明治の揺らん期から大正、昭和の九十五年間、単なる経済 人としてでなく、あらゆる方面にたたかい抜いた偉大な人生だ。九十五歳まで生きるということは並大低ではない。人一倍心臓が強かったに違いない。いまから二十年ぐらい前のことだが、松永さんは電力再編間題で敏腕を振い、現在の九電力体制を築く原動力となった。人呼んで”電力の鬼”というのは、このためだが、私にいわせれば.”人生の鬼”だった。
電力界がいま”第三の火”として取組んでいる原子力発電ひとつとっても、松永さんは、燃料ウランの回収ができて発電コストが安くつく高速増殖炉の開発に生命をかけておられ、九十五歳にしてなお人生に挑戦しょうという姿勢をくずさず、われわれに多くの教訓をのこしてくれた。こんな話をすると、松永さんはコチコチの実業家タイブではないか、と早トチリする人が多いが、どうしてなかなかの文人肌だった。”ジャーナリストの父”といわれる長谷川如是閑、世界
でも指折りの歴史学者アーノルド.トインビーなどと親交があったばかりか、中国の文人、郭沫若氏が日本滞在中(亡命中)に骨身を惜しまず世話をするなど、かくれた逸話が多かった。これら松永さんの親友が、いま日本の文化にいろいろな影響を与えていることを考えると、松永さんはその意味で、日本の新しい文化創造のパイオニアだったといえる。
実業およぴ文化め世界で、松永さんの遺志を今後どうやって受継いでゆくかが課題だ。
松永さんのご冥福を心からお祈りしたい。
<東京電力会長・木川田一隆氏談>
同日、毎日新聞夕刊
一本のツエ悲し
電力一筋95年大往生の松永翁
”電力の鬼″といわれた松永安左エ門翁が十六日未明、静かに大往生をとげた.明治、大正、昭和と三代を′電力′一筋に生きぬいた九十五年の人生。「ここがわしの事務所だよ」と四月十六日から入院した東京・信濃町の慶応病院。静かにツユの雨がけむるなかを故人をしのぶ人たちが病室につめかけた。″葬式は出さないでくれ′という遺言、生前埼玉県下に亡妻と並んで自分の墓をつくっていた − など翁の人柄をにじませる逸話に人々は改めて胸を熟くしていた。
寒い間だけ、慶応病院を事務所がわりにしていた故松永翁はそこを「下宿」と呼んでいた。十六日朝、電力界の巨星は八畳ほどの広さの五号棟一五一三室のその”下宿先”で近親者など約十人に見守られて去った。
その知らせを受けた宇佐美洵、小林中、横山通夫ら財界、知人などが午前八時すぎから続々と馳けつけた。だが「派手なことすべてすべからず」との故人の遺志で「せめて、病室でめい福を祈りたい」と頭を下げる弔問客もすべて、受付の電力中央研究所の職員が「故人の遺志をまげるわけにはいきませんので」と丁重にお断り。 朝、早く馳けつけた弔問客約三十人が最後の対面をしたのは午前九時十分。白布に包まれ酵剖室へ運ばれる途中で、黙とうをする人、手を合わせる人ー。わずか五分の別れを惜しむ。
翁のなくなるまで長男の松永安太郎さん=サンケン電気専務=らと付添っていた中部電力会長の横山道雄夫氏は「前夜からのこん睡状態が続き、なくなられるまで容体が変わらなかった。其っすぐ上を向き、目をつぶり、非常に静かに息をひきとられた」と声をつまらせながら″最期″の場面を語っていた。
解剖の終った遺体は午前十一時すぎ、寝台車で神奈川県小田原市板橋五一七の自宅へー。 主のいない病室の隅には長年、翁が愛用した一メートルちょっとのツエがさぴしくたてかけてあった。この一本のツエとともに翁は電力の世界を力強く生き抜いたのだった。
遺体は十七日、小田原市で火葬にし、同日夕埼玉県新座市の平林寺へ運ばれ、家族関係者だけで霊を慰める。官庁、民間、財界関係者との.”追悼の会”は七月、東京、名古屋、福岡で行われるが、故人の遺志に沿って簡単な.お別れの会″ になるという。 なお、この夕刊にも四段にわたり木川田一隆東電会長の談話がでている。
又、日本経済新聞夕刊では、一面に写真入りで死を報じ、略歴を発表、十一ページに木川田一陸東京電力会長の談話(木川田氏の談話は各紙に出ているので除く)につづいて、 「産業家精神を学ぶ」と題して、加藤乙三郎(中部電力社長・電気事業連合会会長)が次のように語っている。
電力業界としては偉大な大先達をなくして残念でならない。ふり返ってみると、翁は電気事業の再編成以来その育成に大きな指導的役割を果たされ、電力業界のみならず、経済界全体にも大きな影響力を与えられた。合理化、近代化に徹せられたその産業家精神はわれわれの大きな支柱であった。残されたものとしてはこの精神引き継ぎ、電気事業を一層充実させるとともに、あらゆる層の方々の信頼を得る事が翁の死に報いる道であり、責任だと感じている。又、アメリカ滞在中の永野重雄新日鉄会長は東京からの電話に次のように答えている。
「人生の師匠だった」
松永翁には非常にかわいがってもらった。電力業界だけではなく、財界最長老として生きた経験の教えを受けてきた、松永さんはまだ元気で活躍しておられた時、毎月一回は料亭に私を呼んで経済界や人生のあり方を教えて下さった。第一線を退いてからも毎夏当社の箱根の寮にきていただき、お話をうかがっていた。ことしの夏もその予定で日取りまで決めて楽しみにしていたのだが・・・。”電力の鬼”といわれてきたが私にとっては人生のお師匠さんだっただけに悲しみでいっぱいだ。(ワシントン=時事)翌日本経済新聞夕刊(六月十六日)による。
東京新聞など.”葬式・勲章はいらん”松永翁、大往生で「鬼を返上」と七段に渡って詳細に翁の経歴を記しているが中に写真家として有名な杉山吉良氏の談が出ている。 弔問客は財界のトップクラスの人ばかり、その中で、翁の晩年の姿を十数年来にわたってとり続けた写冥家の杉山吉良氏は、「私にとって最後の師匠でした。私が、人間には限界があるという意味のことを話したら″けしからん、限界なんかない。そんな考えを持っているから何もなさずに死んでしまう。完全という
ことはないかもしれんが、完全になろうと努力することが尊いのだ”とおこられました。と老いてなお盛んだった翁をしのんでいた。<同日東京新聞夕刊>
私が、こうして各新聞の記事を付記したのはこれら一流新聞が、このように大きなスペースをさいて松永氏の死を報道していること、それは、翁がその当時の日本にとってどんな地位を占めていたかを読者に伝えるためである。 財界人恒例の新年パーティーに出ても、出席の総理大臣をさしおいて、来賓代表として第一に挨拶をした、その一事が翁のすペてをよく物語っている。
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