『私の妻は昨秋死んだ。それで一人になると、いろいろな事を考える]』。
・・家内と私は性格が正反対で、それは非常にいいことだった。家内の兄は、後に東邦電力の社長になった人だが、非常に固い人で、その性格を家内も受けていた。私は、この妻の性格によって、大いに助けられたといえるだろう。
思い起こすと、家内に対しては、相当相済まないこともやった。固い家内のことだから、ずいぶんやかましくて、よくとっちめられもした。だから、私はいくら道楽しても、待合などに泊まるということはなかった。何時までには帰るなどというのは、男の権威にかかわるから、いわないことにしていたが、十二時頃までには必ず帰るようにしていた。遅くなると、やかましく小言をいわれたものだった。・・・
・・結婚してから五十四、五年の月日が流れた頃に妻は私に向かって「いったいあなたは、若い時から勝手なことばかりして、人に迷惑ばかりかけてきた。これから先は、なるべく人に迷惑をかけないように大人しくして、世間の妨げにならないような生活の中に、静かに人生の幕を閉じるようになさって頂きたい」といったものだ。
私は「馬鹿なことをいえ、おまえはそれでよかろうが、俺はそうはいかない。まだやらなければならないことは、いくらでもある。今ごろからそんな呑気なことをいってはおれん。それよりも、おまえ少し体がよくなったら、ヨーロッパへでもどこえでも、今なら飛行機でいけば訳はないのだから、遊びにいこうじゃないか」という。しかし家内は、そんな事は真平御免で、家に一人でいて、女中相手に掃除でもしている方がずっとよい、といってきかない。・・・四、五年前、羽田から福岡まで飛行機に乗せたことがあるが、その時は非常な決心だったとみえて、遺言状を書いていたことが後でわかった。
わたしたち二人が考えてきたことは、お互いに人に迷惑をかけないし、人の世話にもならない、なんでも独立でやるということだったが、そういう方針で一生を通してきて、一番困るのは葬式だ。こんな厄介なことはない。・・・
・・・骨だけは墓にもっていかぬと親類が文句をいうから、骨だけは埋めておいた。私自身は骨もいらない。私は家内に、「人に迷惑をかけるから決して葬式はせんよ、坊さんはきらいだから、戒名もつけないよ」といっておいた。それでも家内の墓だけはつくっておいてやろうと思って、”千八百八十四年中津に生まれ、千九百四年松永安左エ門に嫁し、千九百五十八年十月死”ということを石に、あとでわからんといけないからローマ字で書いたのをつくらせている。
付け句
一度ふりむき長居せぬこと(耳庵)
墓石には、”貞淑慈愛”という松永の字がほりこんである。
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