(財)電力中央研究所は、昭和二十七年電力九分割民営化を成し遂げた松永安左工門が、将来の電気事業に関わる研究機関として、又、シンクタンクとして、エネルギー、環境、経済問題に取り組みながら、社会に役立つ技術を開発し情報を発信する民間の機関です。以前から、壱岐松永記念館には「電中研」の理事の方や職員の方が、出張の帰りや、休暇を使って来館しておられ、色々話をさせて戴くなかで、「壱岐にも、東京の資料を置ければ、松永翁が戦後の日本の為にやろうとしたことや翁の理念を観光客の方や、他の目的でこの島に来られた方々に解って貰えるのではないかという話をたまたましたのが「電中研」の広報グループ長の金津努様だったと言う次第です。

 金津様が言われるには「『電中研』生みの親の生誕地にわれわれの資料を展示出来ると言うことは、とても喜ばしいことです。」と御快諾戴き、手続きを経て、来る十一月十三日大安の日に設置オープンの運びとなりました。この資料は、戦後日本のインフラや政府の方針に、我安左工門翁がいかに大きく、そして細かく関わっていたかを証明し、また、その展望の大きさと正しさを証明する貴重なものです。全国から百二十人もの学者や財界人そして政治家を集め三十年後の日本を考える機関として「電中研」の中にさらに分野を越えて自由な発想のもとに作ったのが「産業計画会議」です。

 そして、ここが時の政府に出したのが有名な「16の提言」なのです。現在16のうち13が実現しています。その代表的なものの一つが東京〜神戸間高速道路を太平洋側に持ってきてさらに高架とする案は、在来の案よりも予算においても工事期間のうえでも安上がりだったと言われています。また、この時日本の車生産台数三万台にも満たないときに、50万台の通行に耐えられるものを造れと号令しています。来るべき車社会を的確に読んでいたというわけです。これは、松永翁のほんの一端でしかありません。とくに戦後の松永翁には、私欲、と言うものが無かったと感じます。ただ国民生活向上の舞台づくりに奔走した23年間だったようですし、そのためには一分一秒を惜しんで活動していたと言えるでしょう。

 まだまだ色々な言動がありますが、他は又の機会にさせて戴きます。経世家としての松永翁をみれる貴重な資料がこの壱岐に来ると言うことです。これは間遅いなく、壱岐の人間に勇気と希望を与える超一級の資料であると確信いたします。(つづく)


(財)電力中央研究所の資料
松永翁の故郷へ A 松永記念館・管理人 定村隆久

 十一月十三日は、前々日から大嵐のため展示物、電中研の方の到肴が遅れ、少々バタバタの設営となりましたが、午前十時すぎより、市側から小島教育課長、赤木係長、そして観光商工課池上コンシェルジユ、平田係長はじめ課員の方々の立ち会いのもと無事引き渡しセレモニーを済せ公開出来る連びとなりました。今回商工課の方たちの松永翁に対する見識の高さとご理解には木当に感謝いたしたいと思います。第1次〜第16次までは次のとおりです。

    @日本経済立て直しのための提言
    A北海道開発充はどうあるべきか

    B高速道路についての勧告
    C国鉄は根木的整備が必要である

    D水問題の危機はせまっている
    Eあやまれるエネルギー政策

    F束京湾2億坪埋めたてに関する提言
    G東京の水は利枳川から

    H減価償却制度はいかに改善すべきか
    I専売制度の廃止勧告する

    J海運を全滅から救え
    K東京湾に横断堤を

    L新東京国際空港
    M原子力政策に提言

    N危険な束京湾
    O国鉄はH本輸送公社に脱皮せよ

 これは松水安左工門の名において順次日木政府に提言されていきます。そして重要なのは民間の提言であって決して近年の日本の政策のように官僚の作成したしものではないということです、官僚支配からの脱却、政治主導だと新政権も頑張っている様ですが、すでに六十余年前に実行し、時には国鉄と衝突しながら日本再建のエンジンである電力事業だけは民間の意志で経営しようと踏ん張ったと言えるでしょう。電力によって敗戦の傷跡から立ち直らせるという本来の目的のため、戦前から東邦電力で育てた部下たちと共にあらゆる面に目を向け強力なリーダーシッブを発揮していくわけです。「わしは金もいらん、名(名誉)もいらん、おまけに票もいらんだから電力だけは自分がやらんといかん」晩年松永翁が、言っておられた言葉ですがとても興味深い言葉だと思いま。(つづく)

 (財)電力中央研究所の資料
     松永翁の故郷へ (3)  松永記念館6管理人  定村隆久

 九電力分割民営化、これだけでも、一人の財界人としては偉業と言われることに違いありませんが、そこから先、自分が居なくなっても困らないように各電力会社から一定の金を徴収して、技術の開発や研究を進める組織を作り上げること、それが電力中央研究所です。最初は136名の若い研究者で始まったものが現在700名の研究者と100名の職員で最先端の技術の研究が為されています。

 この「電中研」で過去に開発したもので一番身近なものに田植機があります。この自動田植機を開発し、特許を取ろうという会議で松永翁の(特許なんか取る必要はない技術を公開しなさい)の鶴の一声で特許を取らなかったという話があります。それが現在皆さんが使っているクボタや井関の田植機になっているのです。また最新のものとして、エコキュートが電中研の開発です。この様に松永翁の中には日本の再建と国民の生活レベルの向上しかなかったと言っても良いでしょう。またそのためには人を育てることだと確信しておられたとおもいます。

 共同通信大谷記者のインタビュウで、(松永さんが一番誇れるとしたらなんでしょう)の問いに即座に(人だ)と答えています。戦前の東邦電力からの部下に加え、東京電力の木川田一隆、黒四ダムを造った太田垣士郎、などそうそうたる人材が育ったことを大変喜んでおられます。このように、一財界人として政府に意見もし、提言もするそして人材を有効に働かせる、民間の活力を最大限引き出し官をもリードしていった最大の経世家といえるでしょう。

 最後に経営の神様と言われた松下幸之助氏が昭和40年ごろ松永翁の電中研の執務室に訪ねてきて言った言葉をごしょうかいします。松下のパンフレットを示し
(いわゆる三種の神器)、「あなたのおかげでこのような物を日本もつくれるようになりました」そして松下氏本人が書いた漢詩をプレゼントしています。

 何度も言うようですが戦後日本の曙は間違いなく松永安左工門からはじまったのです。そしてその資料が壱岐松永記念館にそろったということです。(おわり)