インチキ宗教の見分け方
人々がアノミーのはけ口を既存宗教に求めないで、カルト教団のほうに求めたというのにはいくつもの理由が考えられるが、一つには教義の伝え方があろう。 既存宗教は、広く布教の旅を経て、風土文化の異なる人々に触れ、その教義の論理体系を磨いてきた長い歴史を持っており、教義的には深化し洗練されている傾向がある。
それに対して、カルト教団の多くは既成宗教のつまみ食い、いいとこ取り的な教義を唱えるところが多く、体系がしっかりしているとはいいがたいところも多数ある。酷いところになると、仏教とキリスト教の融合などという、教義も体系もあったものではない、というくらいデタラメなものまであるくらい。逆に体系のないぶん、状況や信者、あるいは教祖の都合に合わせ、融通無碍に変化でき、信者にとってはときにわかりやすく、身近なものとなりうる。既存宗教に比べれば、敷居が非常に低いことが特徴的だったのである。宗教をきちんと勉強すると、インチキ宗教を見分ける最も簡単なポイントが容易にわかる。ここまで、機会に応じて説明してきたが、ここでまとめておこう。
まず一つ目。金儲け宗教はインチキに決まっている。
キリスト教でも仏教でも、お金を出さなければいけないなどとは教典のどこにも書いていない。教典に書かれていないことを義務づけるというのは、啓典宗教にはありえない。喜捨という行為にしたところで、仏教ではいくら必要などという基準を示していないし、少なくても家屋敷を差し出せなとということはありえない 喜捨で最も合理的なのはイスラム教で、所得の四〇分の一、とちゃんと決められている。年収五〇〇万円の人で年間約一二万五〇〇〇円。月々一万円くらいだからそんなにべらぼうな額ではない。そのくらいならば、敬虔な人は出してもかまわなかろう。身ぐるみ脱いで置いていけというのは山賊であって、宗教家ではないし、金を借りさせてまで払わせるのはもはや喜捨ではなく、強盗、いやそれ以上である。
第二のポイント。奇蹟をひけらかす宗教はインチキである。
どの宗教でも、まともな宗教は大概奇蹟を禁止しているか、その扱いを大変に慎重にしている。カトリックでは奇蹟であるかどうかを厳重に証明する義務がある。ユダヤ教では、勝手に奇蹟を起こしたら死刑に処すと決められている。イエスも、自分が起こした奇蹟は、悪鬼の頭ベルゼブルを使って起こしたのではないことを証明している(一四〇頁参照)。また、自分が奇蹟を起こしたことは誰にもいってはならない、と口止めしているではないか。
仏教でも釈迦は奇蹟などは止めておけという姿勢である。喜捨の見返りとしてカを使うという例は紹介したが、喜捨はカを使う対価、報酬ではない。額の多寡で能力を加減するわけでなし、ましてや、○○病を治したければ最低一万円から、などという喜捨があるわけがない。
日本の仏教で、奇蹟を起こしたとして畏敬を受けている日蓮上人も、不必要な奇蹟は起こしていない。日蓮上人は数多くの奇蹟を起こしたけれど、それは結果としてやむをえず起こしていたもの。首を切られそうになつたというくらいの事情なら仕方もあるまい、というところであろう。
人に自分の能力を見せるために奇蹟を起こすなどというのは宗教的に考えれば愚の骨頂で、だいたい、しよつちゅうやらねばならぬものには、大概タネがあるものである。
本当に奇蹟を起こす人間というのは、いることはいるであろう。しかし、凄い奇蹟を起こす能力と宗教的境地が高い低いということは何の関係もないのである。したがって、例えば宙に浮くことができるだとか、病気を治すことができるだとか、そういう能力があることを理由に、自らが教祖であるとか、神の代理人であるとかを主張する人間は、インチキ教祖に違いない。これは宗教をよく研究していると明白である。
法然上人は最高の僧侶と称えられる人物ではあるが、奇蹟を起こす能力など一切誇らなかった。何によって最高と称えられたかというと、その学問の深さである。もっとも、近年は学問を売りものにする宗教もインチキなものが多い。だいたい、学問のあるなし自体も、宗教的境地の高い低いとは直接関係しない。
学問は、やるのならやったほうがよいというのは仏教の考え方で、儒教では学問はやらなければならないというが、キリスト教では学問などは不必要、ただ神を信じさえすればよい。
話のついでに触れておくと、宗教的な優劣と、組織能力にも関係はない。法然上人やら親鸞上人やらは組織能力が全然なかった。しかし、蓮如には大した能力があったという。しかし、この一件をとって、どちらが上かなどという話はまるで筋違いなのである。
そもそも、明らかにはっきりしているのは、組織が大きくなればなるほどその宗教原理は曲がっていく。キリスト教と教会、修道会の例を見ても明白である。 このような、インチキ宗教と真っ当な宗教を見つける基準みたいなものを、いまの宗教家や研究者は理論的に全然勉強していないから、本当に初等的なこともわからない。
(情報源:宗教原論”日本人と宗教2、P−385・小室直樹著、徳間書店、\1,800)
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