トクとの出会い
ただ、良いこともあった。政治家の大井と連絡をとるために何度か東京と香港を行き来していたあるとき、虫の知らせか、ふらりと長崎に立ち寄ることがあった。1894年のことだ。米相場で大損を被ってから2年ぶりのことだった。帰宅すると、庄吉の父・吉五郎は持病の悪化で病床にあった。、
庄吉が久しぶりに我が家の敷居をまたごうとしたときである。知らない女性から誰何された。
「あんた、誰ですか?何で入ってきなさると?」
年若い女性は庄吉が家に入るのを遮った。
「何で入ったっち?あんた、誰じゃい?」
と、庄吉が返すと、
「ここン家の娘ですとへ」
「娘? そがん者のおるはずはなか」
庄吉は不可解極まりない。
「おらんち言いなさっても、ちゃんとここにいますバイ。あんた、一体どこの人な?」
「どこの人?」
庄吉はたたきつけるように、
「オレはオレたい!ここン家の息子バイ。庄吉ぞ!」
と声を荒らげた……。
2人の背丈は1メートル65センチほどでほぼ同じ。その女性、トクは当時としてはかなり大柄であった。庄吉は「なんと大きな女なのだろう!」と驚き、細面で整った顔立ちの庄吉を見たトクは「まるでお人形さんみたい!」というのが互いの第一印象だった。
トクとは、庄吉が鉄砲玉のようにどこかに行ったまま帰ってこないので、このままでは、梅屋家は絶えてしまう、と案じた吉五郎が、もう一人とった養女だ。
男子を養子に迎えるのは庄吉の例で懲りていた。だから「しっかりとした女子をもらい、後に婿を。そして梅屋家には財産もあるから、できることなら士族の娘を迎えたい」と考え、八方手を尽くして探し始めた。すると、庄吉がビニエスペンドル号の遭難から奇跡的に生還して間もない頃、「壱岐に士族の子でしっかりした娘がいる」という縁談がもたらされた。
トクは1875年(明治8年)5月8日生まれ。住まいは、長崎県壱岐島北部の可須村(現在の壱岐市勝本町)で、香椎岩五郎の5人きょうだいの次女。高等小学校卒業ながら、頭の回転のはやい少女だった。
梅屋家としては歓迎ムードだったに違いないが、香椎家はそうはいかなかった。当時、まだ士族には平民に対して差別感情があったし、香椎家は島の古い家柄で、鉄砲奉行も務めていた。またトクの父は、亡くなるまで髭を結い、腰に刀をさしていたほどの昔気質だったため、梅屋家の申し出に、「平民の、しかも町人の家に娘はやれん」とはねつけていた。
しかし、士族という肩書はあってもその頃の香椎家は、所有する浜辺の数千坪に及ぶ土地を貸して、その地代で暮らしていたという有り様だ。梅屋家は根気強く交渉を続けたところ、トクの父もついに折れた。
トクが養女として梅屋家にはいったのは、17歳のときだった。その頃の庄吉といえば、相変わらず鉱山開発で各地を飛び回っていて、ほとんど家には帰ってこなかった。だからトクが養女に迎えられたことも知らなかったのだ。
家業にいそしむトクは、最初こそ言葉ができないために外国人バイヤーには身振り手振りで応対していたが、すぐに片言ではあるが外国語を話せるようになった。必要に迫られてのことだったが、英語やフランス語、のちには、マレー語なども、簡単な日常の用を足せるまでになっていった。吉五郎夫妻は、「トクが養女に来てくれて、ほんなこと良かった」と喜んでいた。
吉五郎は久しぶりに帰宅した庄吉と養女のトクを枕元に呼んでこう言った。
「家をお前たちが継いでくれ。一緒になるのを見届けてあの世に行きたい」庄吉にしてみれば、降ってわいたような話だ。香港には、トメ子がいた。しかし庄吉には、商売で大損をして両親に迷惑をかけたことが重くのしかかり、それがずっと父への負い目になっていた。だから、トクと祝言を挙げてほしいという遺言を投げかけられたとき、庄吉は従うしかなかったのだろう。
そういう決断をした庄吉をトメ子は見限ったと、前記の大場の本に書かれている。女心としては理解できるが、庄吉の思いも痛いほどわかる。
吉五郎の枕元に親族が呼ばれ、祝詞が唱えられた。時に庄吉27歳、トク20歳。2人が夫婦になるのを見届けてから、吉五郎は息を引き取った。
賭場での武勇伝
庄吉も、結婚すれば長崎の梅屋商店に残り、家業に精を出すだろうと期待されていたが、またもや家業はトクに任せて、これまでどおり香港に戻っていった。トクは母ノブが亡くなる1903年(明治36年)まで長崎で家業を守り立てた。庄吉と香港で暮らし始めたのは、結婚してから9年も後のことである。
梅屋照相館の経営が軌道に乗り、香港暮らしが長くなるにつれ、庄吉は現地の顔役的な存在になっていく。持ち前の面倒見の良さが現地でも発揮されたからだろう。
まずは武勇伝をひとつ。当時、香港でさまざまな犯罪が日常茶飯事のように起きていた。賭博もそのひとつ。いかさまバクチで客の身ぐるみを剥いでしまうという、恐ろしい溜まり場があった。
そのボスがハリマという日本人で、警察も手を焼いていた。庄吉は警察の溜まり場一掃作戦を手伝うため、ハリマ相手に、一世一代のいかさまを仕掛け、やっつけてやろうと考えた。彼らが賭場でやっているのは花札賭博の、種「八八=はちはち」。庄吉は何度も八八のいかさま技の練習を繰り返し、絶対に見破られない域にまで達したところで勝負に臨んだ。
結果は庄吉の勝ち。庄吉はハリマの身ぐるみを剥いだのだが、そのあとが在吉らしかった。このボスと賭場に巣くっていた犯罪者たちを全員家につれてきて、面倒をみてやると言い出したのだ。トクは不服も言わず更生をひきうけ、彼らを真人間にしたという。同様のことはその後も何度かあったようだ。
「千世子の回想文」にもそのことが出てくる。(帰国後住むことになる東京の)大久保でも、私は母が犯罪者の肌着類を自ら洗濯しているのをよく見かけました。たくさんの手伝いがいるのに何故こんなことを自分でやるのか不審に思い、尋ねてみました。母は、「人の愛を知らない心のまがった人には、神のような心で接しないと、真人間になりません。自ら肌着の汚れまで洗ってあげて愛を示してあげる事が、人をよみがえらせることになるのですよ」と申しました。
とにかく庄吉は、困っている人や、弱い人を放っておけなかった。.たとえば、お金に困った人がいると援助をせずにはいられなかった。私の家に残っている庄吉宛の日本人からの手紙のほとんどは「無心状」である。手形まで残されている。100年近く昔の書状なのだから、残されているのはごく一部だと推測されるが、それでも驚くほどの数である。
無心状の中に、「宮崎滔天」の名も複数ある。滔天については後述するが、生活に貧窮していた彼が巻紙に毛筆でしたためている。ただ字は殴り書きに近い。
謹啓
遠来の珍客あれども酒どころか茶一杯も飲ませられぬ笑止さ
是れでは如何にも支那浪人の顔が立たぬ
されば度々願兼候共□幾何にても宣布候間御貸し…・否、恵みて
此男の顔を立てさせ玉へかし
少しあつかましくて往きにくいから伜龍介を使はして此儀を伏願す 不一
二十五日 弟滔天
覇亭我歌 侍史
(注)□部分は読み取れず、以下同) |
「覇亭」とは、のちに庄吉が設立した映画会社「M・パテー商会」にからめた呼びかけだろう。庄吉の日記には、とにかく誰にいくら渡したかが細かく記録されている。それらは、革命に赴く日本人志士らへの援助だけでなく、ある人には学資を、またある人には入院費の援助であったりした。莫大な革命資金を用意したと聞くと、少額のお金には関心がないと思いがちだが、庄吉の日記には、バターや薬を買うのにいくら払ったか、香典をいくら包んだなどと、細かくメモされており、お金に関してはかなり几帳面で、無駄遣いはしなかったに違いない。そうして捻出したお金を革命資金として孫文に送ったのだろう。
3つの信条
お金を渡すだけでなく、捨て子を育てたりもしていた。見ず知らずの2人の子供を家に連れて帰り、トクに「この子らを頼むぞ。面倒をみてやってくれ」と頼んだこともあったという。
また庄吉は、親しくしていたあるイギリス人から、自分はイギリスに帰国するので、香港の愛人との間に生まれた女の子を育ててくれないかと頼まれる。その子はまだ幼かったし、トク自身も子供を育てた経験がなかったけれど、ベビーシッターの手を借りながら、無我夢中で世話をし、育て上げた。
求められて養女に出すときも、「この子を決して、他に渡したりはしない」と書かれた誓約書を先方からとるという念の入れようだった。
後に『日本論』を著し、孫文の一等秘書および通訳を務めた戴季陶たいきとうも、日本人女性との間に生まれた子供を庄吉に世話してほしいと頼んでいた。成長したその子供は、蒋介石の養子となり、蒋緯国と名乗った。
後年、中華民国国民革命軍の将軍となる。戴季陶から庄吉宛の書簡にはこの経緯と庄吉、トクヘの感謝が綴られている(「討衰運動期における戴季陶の日本認識1913〜1916年」張玉薄)
東京でもみなし児、薄幸な子供を9人も育て、社会に送り出しもした。大久保百人町(現・百人町)の自宅の隣には、軽犯罪を犯した女性を更生させる「婦人ホーム」という施設があったが、そのホームから逃げてきた女性たちを追い返すことなく、かくまったり、お手伝いとして住み込ませて、トクが"教育係"として更生させたりしたこともあったという。
決して見返りを求めなかった庄吉とトクだが、それらの人々が2人の亡き後、梅屋の家を訪ねてくることはほとんどなかった。
しかし、トクヘの恩義を忘れなかった一人の男性がいた。三井物産OBの末広栄(すえひろさかえ)氏である。戦前、赴任先の上海で庄吉と出会い、戦後も引き揚げ先の東京で交流があった。末広氏は庄吉とトクに世話になった様子を「読売新聞」(西部本社版2002年6月13日付)のインタビューに答えている。
奥様(トク)は堂々とした女丈夫で男勝りの気性を持っておられました。曲がったこと、悪いことに厳しい態度をとられる。しかし我々が梅屋先生にひどくしかられると、かばってもくださった。小遣いから肌着、身の回りのこと、家庭、親せきの心配ごとに至るまでよくぞと驚くほど細かく気を配って世話してくれました。
トクさんは海軍の大佐とも知り合いで顔の広さに驚かされた。自宅によく遊びに行ったが、独身の私に「泊まっていきなさい」と声をかけてくれた。戦後の食糧難の時にはよく食事をさせてもらった。
末広氏は広島県の出身で、トクが亡くなった後も、季節になると我が家へ毎年牡蠣を送ってくださり、私も子供の頃、「あやさん、あやさん」と言って可愛がっていただいた。そうしたつきあいは末広氏が亡くなるまで続いた。
庄吉の面倒見のよさは、生きている人ばかりではなく、この世を去った人にも及んだ。なかでも身寄りがなく、香港で客死し、無縁仏になった日本人の墓碑を建てたりもしている。一旗揚げようと海を渡ったが志半ばで命尽きた-自分と同じ思いを抱いていた人に特別な感情がこみ上げてきたのかもしれない。
香港に在るの日、邦人の此地に客死して無縁佛となれるもの多きを嘆じ、在留邦人間を勧説して醸資し、数基の墓碑を建て、一家屋を賃して寺となし、東本願寺の僧侶高田栖岸師を聰して法会を修し、以て幾多無縁の幽魂を慰むるを為せり。(『わが影』)
帰国後も、庄吉は貧しい人や無縁仏の墓を建てた。晩年を過ごした千葉県岬町(現・いすみ市)の別荘のそばにある本寿院という寺に「松濤群衆之霊」と刻まれた墓がある。千葉外房の海岸に打ち寄せられた身元不明の死者を弔った墓だ。墓石の裏には施主として、庄吉の名前が彫られている。つらい境遇にあったり、悲しい運命にある人を黙視できない庄吉の性格はこんなところにまで反映されていた。
庄吉は、3つの信条を持っていた。
一、この手によって造られざる富は多しといえども貴むに足らず……。(つまり、富や豊かさは財産や名声にあるのではなく、富貴在心、つまり人の心の中にあるものだ)
二、世の中は持ちつ持たれつお互いに助け合うこそ人の道なれ。(「同仁」とも通ずる考え方である)
三、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
庄吉の行動の裏には、こんな庄吉のもとに、こうした信条があったのだ。ある日、運命の人が訪れる。
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