チヨットだけ奥の細道
東京雪州会理事 大久保 芳勝
月日は百代の過客にして、行こう年も又旅人也。 甥の結婚式に仙台まで来たついでに、俳人松尾芭蕉の足跡をたどつてみることにした。芭蕉が河合曽良を道連れに、江戸・深川の芭蕉庵を出て、行程百五十日の奥の細道に旅立ったのは、元禄二年(一六八九)
旧三月二十四日、四十六歳の時だった。一行が塩竃神社に参拝したのち、舟で松島に渡り、瑞巌寺や雄島を見物したのは五月九日(新暦六月二十五日)だった。
芭蕉御一行が見た松島は、絶景であったにちがいない。あまりの景勝に絶句して、松島を詠んだ句がない。今日の松島は、日本三景とは言い難い。あまりにも観光地化され、海も決して綺麗とは言えない。 壱岐はどうだろうか、故郷の発展に協力することは、やぶさかでないが、風景は崩さぬよう、汚さぬよう願いたい。
その頃、江戸にもあっただろう人の心の優しさだけは未だ残っていた。二、三度、道をたずねたが、丁寧に教えて観光地図まで渡してくれた。旅先で、これは何より救われる。我々は、高城川を渡り松島市内から少し離れた宿に泊まった。宿から見える松島湾は、カモメも憩う良い眺めだった。 元禄二年五月十日(新暦六月二十六日)石巻に入った芭蕉は、「つひに道踏みたがえて石巻という港に出づ。宿借らんとすれど、さらに宿貸す人なし」と旅の心細さを訴えているが、曽良日記には書かれていないことから、松島と比較した芭蕉の創作だろうという説もある。芭蕉殿、石巻の住人に失礼ですぞ!
御一行は従って日和山に登った。北上川の河口近くにあり、牡鹿半島と石巻湾が見わたせる。今は公園となっている此処に、芭蕉、曽良行脚像が立っている。当然、海を見下ろす像かと思ったら、山に登る像だった。主を思いやる曽良の仕草を、よく表した像だった。 これより、一関街道を北上川に添って上り登米(とよま)で一泊するという。登米大橋を渡った右側に、芭蕉一宿の碑があった。御一行はお泊まりだが、我々は平泉へと急ぐ。なにしろ履いているものがワラジとタイヤのちがいである。
登米を立ったお二人は、五月十三日(新暦六月二十九日)夕方平泉に着いた。途中、雨ガツパを通す程の大雨に合われたとか。雨具といっても当時は、みの、かさか桐油紙製のものだったろうと思う。石巻から平泉まで約八十粁を三日で歩く、一日約二十七粁としても、道路状況の悪い時代に、かなりの強行日程だったにちがいない。
平泉は、「奥の細道」のハイライトと言えるのではなかろうか。芭蕉に倣って高舘(たかだち)に登る。 源義経が非業の最期をとげた地といわれている。束稲山(たばいねやま)の雄大な眺望が素晴らしい。 この高舘の城で、主君を守って戦つた家来たちのことを思い、「囲破れて山河あり、城春にして青みたり」と杜甫の詩を口ずさみながら、笠を敷いて腰を下ろし、しばし涙していたという。
『夏草や兵どもが夢の跡』 芭蕉が悲運の義経主従をしのんだ句である。又、曽良は、義経に仕えていた兼房は、白髪を振り乱して戦ったというが、茂みのかげに咲いている白い卯の花が、兼房の白髪頭にも見えたりすると、 『卯の花に兼房見ゆる白毛かな』と詠んでいる。 これから中尊寺に詣で、金色堂を見る。さすが藤原氏が築いた黄金の都である。まるで夢かと思われる。
『五月雨の振り残してや光堂』芭蕉が光堂への思いである。 平泉に一泊する。ここで安房鴨川から来たという夫婦づれに会ったが、御亭主が体調をくずしたとか、無事もどられたか一寸気になつた。 御一行は奥州街道から最上街道に出て、鳴子、尿前(しとまえ)の関を経て山刀切(なたぎり)峠を越え、山形の立石寺(山寺) に詣で出羽三山へと続くが、我々は東北道で江戸に戻った。残りの行程は、折をみて訪ねてみたいと思う。
芭蕉については、その研究家で知られる大先輩、真鍋儀十翁(雪州会三代目会長)が、ゆかりの地、江東区に、「芭蕉記念館」を、昭和五十六年に開館され、約二千点の貴重な資料を寄贈された。開館当日は、車椅子でテープカットされた。庭の築山には、 『古池や蛙飛び込む水の音』 の句碑がある。 また、河合曽良は、長野県諏訪市の出身で、宝永七年(一七一〇)五月七日、幕府巡見使一行に加わり壱岐に到着、勝本町の中藤家にて客死、同年五月二十二日のことだった。
『春にわれ乞食やめても築紫かな』 城山公園に立つ河合曽良の句碑である。 緑あって諏訪市と勝本町は平成六年に、「友好都市」を締結した。曽良の二百九十四回忌供養を城山公園で、諏訪から参列の三十一人を含めて、命日の二十二日に行われたと平成十四年五月二十六日付の壱岐日報は伝えていた。
(情報源:雪州会だより31号から転載)
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