日本よ 何を変えなくてはならぬのか 石原慎太郎(産経新聞H21.7.6) 自民党政権崩壊の兆候濃厚のこの頃、人気の知事に衆院選立候補を安易に持ちかけたらとんだ条件を突きうけられ、話を持ちかけた責任者は苦笑いですまそうとしたが与党内はいきりたち、コメディアン出身の相手のしたたかな芸に大政党が翻弗され世間は失笑するお粗末。これはもはや滑稽ではすまず、元籍をおいていた人間としては、眺めていていたたまれない。どうにも、かつて細川内閣なる面妖な内閣が誕生し野党に転じた折の自民党の周章狼狽ぶりを思い出さぬ訳にいかない。あの時の自民党の慌てぶりというのは、重なる悪行が崇ってある日突然愛想をつかした奥さんに家出されてしまい、家のどこに何があるのかもさっぱりわからず、おろおろいらいらする亭主そっぐりの体たらくだった。そこで私は総務会で、この際腰を落ち着けて来世紀に通じる政策大綱を立案したらどうだと提案したが、河野洋平総裁には拒否されたが橋本龍太郎政調会長が自分が責任をとるからとにかくやってくれということで、衛藤晟一議員をアシスタントにして、労働組合とも数回のヒアリングを行い、『二十一世紀への橋』なる大綱をまとめたことがある。 その後、これまた私自身も参画した社会党を抱きこんでの政権復帰があっという間に実現し、それで安心し切った自民党としてはそんな政策大綱はどこかの棚にあげたままそれっきりのこととなった。そこで私が何を提言したかは今さらここで云々はしまいが、会談した労組の幹部の多くが、本音として、憲法はどの項からでもいいから手をつけて改正の癖をつけた方がいいとのべたのと、教育の立て直しには大学に入った子弟には、一年間、自衛隊なり警察、消防、あるいは福祉施設での奉仕の体験をさせるべきだと同意してくれたのが印象的だったが。さてまた今回のこの土壇場に、自民党としては、それがあり得るとするならぱ、その再生のために前回以上に深刻基本的な反省こそ必要なのではなかろうか。誰かが、党の再生アッピールの手立てとして議員の世襲の制限をいい出しているが、それは姑息、というよりも表面的な繕いに過ぎまい。 何よりも制限すべきは国政に占める議員の官僚出身者の多さだろうが。全国の知事にしてしかり。知事はその過半が官僚出。さらに県の主要部長の多くが国の役所からの出向者。国会議員も与野党ともに官僚出があまりに数多い。しかしそれをどうやって規制するかということになれば、これまた基本的人権問題にもなりかねず至難なことだろうが。ともかく彼等の前身たる官僚なる者たちがその特性として自負するものが、なんとこの時代においてなお、コンテユニティ(継続性)、コンシステンシィ(一貫性)の二つであるというのは恐るぺきことで、そんなものをかざしていたら政治がこの激しい変化の時代に対処できる訳がない。例えば文部科学省が提唱しだした『ゆとり教育』などという愚劣な政略はあっという間に弊害を露呈したのに、国家の最重要事業である教育の、官僚の手に依るいたずらな歪みを是正するのになお驚くほどの時間を費やしているではないか。2面に続く 1面から続く 自民党が官僚依存というおのれの過失でこの危機に追いこまれたのは自明だが、いい換えれば自民党は、年金に関する不始末に象徴 されるように、官僚の手で滅ぼされようとしているといっても過言ではあるまい。今になってあらためて、昔、司馬遼太郎さんがよくいっていた言葉を思い出す。「この国は一向に変わらんなあ。明治維新で徳川幕府が倒れ太政官制度が始まり、殿様に代わって政府の派遣した知事が地方を仕切ってきた中央集権体制のままだよ」と。 いわれればその通りで、当人たちにはさしてその意識はあるまいが、国家官僚なるものは国一番の利権組織に他ならない。重ねての天下り横滑り、(福田内閣の時のある閣議で誰かが調べてきて話題にのせたが、有力官庁の事務次官が二度天下りをくりかえしていく先の月給は、なんと総理大臣の倍に近いということで、それを聞かされた福田総理のなんとも苦い表情が印象的だったものだが)、そしてやたらに数多い官僚、それを吸収するための無用に近い地方事務所の存在、直轄事業の一方的分担金の虚構、法案作成の手続きの虚構等々、その如実な証左はこと欠かない。 それらが今日希求されている地方分権の阻害の要因として露呈しているのに、全国知事会なるものも前述のようなそのメンバー構成からして到底中央集権打開への強い引き金たりえない。全国知事会なる会議に出る度感じるのは、あの会議を目には見えず覆っている国家権力への畏怖感、つまりその多くのメンバーの古巣の存在感であって、あれでは地方がまとまっての中央への反逆などとてもおぽつかない。 だから首都圏を構成する四県としては、幸い四県とも知事はそうしたくびきを持たぬだけに、焦眉の間題についてはもはや国家が乗り出すのを待てずに、首都圏に限られてはいるが新しい広域行政のモデルビルディングとしていくつかの問題をこなしてはきた。あれは地方分権とまではいかぬが、地方の主体性誇示の走りの一つではあったと思う。しかし国家の官僚のいたずらな沽券(こけん)は、地方が試みて明らかに成功したそうした事例を国家の規模で行おうとは一向にしない。 早い話世界の先進国の中でバランスシートを持たぬ国は日本くらいのもので、大福帳に近い単式簿記では正確は財務諸表は有り得ず、税金の無駄遣いは容易に隠蔽されているが、東京都は公認会計士協会に依頼して公会計用での発生主義複式簿記を作成し他の自治体にも無料で提供しているが、国は面妖にも他方、何の沽券でか、専門家が嘲笑うような会計制度を採用しようとしている。そして国会はこの問題には知らぬ顔、というよりそこまでの間題意識も皆無である。まさか税金のごまかしの余禄にあぐらをかく国家官僚に気兼ねしてのせいではあるまいが。そうした矛盾への怒りに燃えて地方分権の確立に熱心な橋下大阪府知事が、分権確立のための幾つかの条件を提示して、マニフェストにそれを盛り込まぬ政党の不支持を表明するとまでいっているが、定員数の削減も含めて、太政官制度の崩壊に繋がる抜本的な試みへの意識はいまだどの政党にもうかがえない。 政党は所詮政治のための道具の一つでしかありはしないから、その崩壊や組み直しは目酌達成への方便として十分にありえようが、何のためにそれが行われるかということが明確にされない限り国民の不安、不満は限りなく続くに違いない。間近にせまっている総選挙の最大の眼目はこの国の官僚支配をいかに具体的な案を実現して終わらせるかということに他なるまい。 |