平成21年(2009年)5月28日木曜日産経新聞正論 「共同体」崩壊が危機の本質だ 三菱∪FJリサーチ&コンサルティング理事長 中谷 巌 欝病が蔓延する背景には 年収20O万円未満の「貧困層」が1000万人を超えた。給与所得者の20%以上がこの層に属するが、その多くは派遣やパートなど、非正規社員である。また、国民年金保険料の未納率が40%近くに達し、日本の年金制度は事実上破綻している。このため、国民の多くは老後の生活不安で一杯だ。さらにひどいのは、一人暮らし老人の孤独死だ。死後誰からも発見されずに長い間放置されるという、昔の日本ならとうてい考えられない事態が頻発している。 これらの現実から言えば、現代日本が抱える最重要課題のひとつが「孤立した貧困層」の問題であることは間違いない。「貧困」自体は今に始まったことではない。人間の歴史は飢えと戦いの歴史でもあった。日本は幸いなことに高度経済成長の結果、貧困から脱出することに成功した。戦後日本人の生活水準は飛躍的に向上し、世界の人々が羨むまでになった。だから、「貧困」が日本で最も重要な問題だといっても、にわかには賛成できかねる読者も多いだろう。 しかし、今日の貧困は「社会からの孤立」を伴う。欝病が流行病のように日本社会に蔓延しているが、これも個人が社会から孤立し、心の支えをなくした結果である。昔のように、餓死するほどの貧困は確かに劇的に改善された。しかし、社会から孤立し、精神的に耐えられなくなっている日本人が増えているとしたら、それは無視できることではない。 成果主義が格差拡大助長 同じ「貧困」でも、仲間と喜怒哀楽を共にでき、人と人との絆が感じられ、互いに助け合える環境の中での,「共通体験としての貧困」は何とか耐えられるものだ。しかし、話すべき人も身よりもなく、社会から孤立した貧困層は精神的な面でも厳しい試練に直面するのである。それを示すひとつの証拠は自殺の多さである。日本では毎日100人近くの白殺者が出ている。そのうちどの程度の割合の人が「孤独に苛まれた貧困」のうちに自らの命を絶つのだろうか。 日本人は確かに飢えとの戦いに勝利したが、それと同時にかつて日本に存在した温もりのある共同体社会を失った。江戸時代の長屋住まいの庶民は決して裕福ではなかったが、向こう三軒両隣はお互いに助け合って生活していた。醤油が切れたといってはお隣に借りに行く。お萩を作ったからといっては隣近所に配る。大家さんは親身になって借家人の身の上相談に乗る、といった具合だ。 村では、祭りの際には村民が総出で協力しあい、共に飲み、愉しんだ。もちろん、田植えや灌漑工事など、共同で仕事をしないと食っていけない稲作特有の事情があったわけだが、村人たちは共同生活の中に、窮屈さと同時に心の安定を得ていたとも言える。村の捉に従っていれば、少なくとも孤独のうちに一人死んでいくなどということはあり得なかった。 「孤立した貧困層」を救え もう一つの共同体であった大家族制は戦後、急速に核家族化していった。それは若い夫婦を大家族の束縛から解放したが、親と子、あるいはお祖父ちやんと孫たちの間の絆を希薄にした。他方、戦後、人々に共同体的な関係を提供したのは「会社」であった。終身雇用や年功序列という制度は人々に安心感を与え、会社への忠誠心を醸成した。これはエコノミックアニマルと呼ばれる会社人間を生み出したが、孤立した個人を大量生産することはなかった。しかし、近年になってアメリカ流の経営手法が取り入れられるや、日本の会社はもはや共同体ではなく、単なる所得の稼ぎ場所に転じた。成果主義が格差の拡大を正当化し、株主重視の経営が主流になった結果、会社も従業員の精神的よりどころではなくなった。 このような状況変化の結果、日本人は共同体に依存する生き方はできなくなり、好むと好まざるとに拘らず、西洋流の「個人の自立」を求められるようになった。問題はそうした西洋流の個人主義的な生き方に適応できない日本人がまだまだ大勢いるということである。それもそのはず、日本人は大昔から長い間、人と人との絆をことのほか大切にし、他人への、配慮を忘れず、お互いに助け合う共同体的な生活に慣れ親しんできたからである。 共同体の呪縛から逃れ、自由を謳歌する現代人の多くは、いまやその反動として、社会から孤立するようになった。格差拡大によって貧困層が目立って増え、日本社会の温もりが消え、人と人との絆が希薄になり、人心が荒み始めた。これが日本社会の現状だ。もちろん、昔のままの日本に戻るという選択肢はありえない。そんなことは不可能である。しかし、このまま突き進めば、日本社会はその本来の良さを失い、日本文明は荒廃に向かうだろう。この"辺りで立ち止まり、「孤立した貧困層」の問題を直視すべきなのではないだろうか。(なかたにいわお) |