日本よ 石原慎太郎 無限の宇宙の中で
 先日あるテレビ番組で、新しいプラネタリュウムで映写するための、既存のものを凌ぐ、鮮明ではるかに数多くの星を写すためにチリーの標高五千五百メートルのチャナントール高原に、日本も出資して作られつつあるアルマ天文台に出かけていったカメラマンの報告を見た。

 かの地は世界で一番雨の少ない、それ故湿度の低い空気が澄みきって世界で最も鮮明な星空が見られる地点だそうな。そこで徹夜で地球を巡る星たちを観測撮影した彼の述懐の言葉が、なぜか鮮烈に私の胸に響いた。

 標高からいっても極寒の地だろうが、その大地に仰向けに寝て空を仰ぐと空一杯に無数の屋たちがびっしりと、手を伸ばせば届くように見える。天の川も、そこで発生しこれから星として生まれようとしているガスの帯までが鮮明に見える。そしてそこまでの距離は何万光年、いや手で触れそうに見える星屑までが何億何十億光年という隔たりなのだ。

 「こうしていると僕は空を仰ぐなどというよりも、この地球という星にへばりついて、じかに字宙に接しているという気分です」彼はいっていたが、その実感は彼が届けてくれた映像からも如実に感じられた。

 私も今まで世界のあちこちを訪ねることが出来たが、この年齢となり自分の人生に残されているものについて考え感じるようになると、どこよりもチリーのあの高地にいって宇宙そのものに接してみたいとしきりに思う。人はよく何々の哲学などというが、「哲学」そのものは存在と時間について考える学問のことだ。西洋哲学の始祖の一人アリストテレスは、「ここに在るこのペンが、何でこんな形をしているのかなどということではなしに、このペンがここに在るということそのものが不思議なのだ」といっているが、その実感を恐らくチリーのあの高地で眺める星空は伝えてくれるに違いない。

 年齢を重ね自分の死についての実感といおうか、予感をようやく信じられるようになると、誰しも自らの人生に重ねて「存在」と「時間」の幻妖な不思議について感じられるようにはなる。それは人生かけてようやく獲得出来た成熟というものかも知れないが、しかしそれでにわかに何がどうなるものでもありはしない。

 私はかつて人生で迷って立ち往生しかけた時、知己だった松原哲明師の寺ににわかにいって座禅を組んだことがあるが、その後

 「あんたは見掛けは立派に見えるが、こうして座っているのを後ろから見ると、しょぼいねえ。座禅なんか急に組んだって効きゃしませんよ。それより好きな海にでも行っといでよ」

 いわれて翻然とし仕事を放り出し仲間と数日航海に出て少し救われたことがあるが、この所の心身不調で松原さんにまた頼んで座禅でも組もうかと電話したら、私より若い彼は昨年急死していた。これもまたいろいろな意味でショックだった。ということで、実は私がプロデュースして世に出た哲明さんの父君の名僧泰道さんの名著「般若心経入門」を読み直して見たが、全然悟れない。

 全宇宙の存在に比べれば人間個々の存在なんぞ無に等しい、というのは理としては分かるが、実感にはいたらない。その実感がないと悟りにも解脱にも通じない。折節に読んでいる法華経には、他の宗教には例がなく、お釈迦様は「存在」と「時間」そのものについて、現代数学の「群論」のような絶妙な例えを引いて説いている。

 存在と時間の無限性を前にしてたじろぐ人間たちのためにこそ輪廻転生が説かれたのだと思う。

 松原師の般若心経の解説にも、人間の存在のはかなさを覚るという否定の向こうにこそそのはかなさを超克する、さらなる否定が在って人間はそれでようやく救済され真の安定が得られるのだとある。故にもその実感を体得するために私としては是非ともチリーのあの高地にいって地球に張り付きながら宇宙とじかに接したいものなのだが。

 そして思ったが、もし全人類があの高地に出向いて、群論的にいえば「無限の無限」たる宇宙にじかに向かい合えたら、我々の存在の貴重な背景である、このちっぽけな地球を救うために妥当な抑制を自らに強いることも出来るに違いない。

 あのチリーの高地からの宇宙の映像を見て私は改めて昔聞いた、ブラックホールの発見者ホーキングの講演の中で彼がいった言葉を思い出す。「地球なみの文明を持った惑星は宇宙全体に二、三百万あるだろう。しかしそうした星はその文明なるもののために循環が狂い極めて不安定となり、宇宙でいえばほとんど一瞬に、地球時間でいえばせいぜい百年ほどで滅びてしまう」と。

 温暖化のもたらす豪雨を含めたこのところの地球全体の気象異変をどう捉えるかを、私たちはあのチリーの高地で仰ぐ宇宙の、せめて映像に依ってでも覚らなくてはなるまいが。人間は必ず死ぬ。その人間がまたこの地球を自らの手で殺そうとしているのだが。
情報源:産経新聞H23('11)11.6

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