二九会 だより "絆"  (情報源)

                                 NO.53 平成27年11月20日
                                 発行 二九会事務局
                                 題字 赤木富廣君

 モンゴルの旅                                 山西 實
 三年前の奇しき縁で、七月三日から、思いがけぬモンゴル・ウランバートル訪問の機会を得た。それは、一支国博物館でソソルバラムというモンゴルの著名な俳優と出会ったことに始まる。その夜の会食のとき、彼が何故か解らぬが私をモンゴルに招待するということであった。それが今年四月映画制作のため再来島、四月一九日の夜急遽連絡を受け、関係者一同の会食の場に出向くや否や私にモンゴルに来るようにと満座の前で旅費同封の封書を渡され、本決まりとなった。

 モンゴル・・面積は日本の約四倍、人口は約三〇〇万人首都ウランバートル・・標高一三五〇m 北緯四七度五五分、原の辻遺跡北緯三三度三〇分、緯度一度の距離が約一一一q、経度を無視すれば、一五五五q北に位置する。人口約三七万人、在留邦人約四二〇人。トーラ川流域に都市化が進んでいる。路面電車なし、バスと自家用車(トヨタ車多し)で通勤通学。

 宗教・・チベット仏教(ラマ教)、シヤーマニズム、キリスト教。

 教育・・一二年制(民主化後)の義務制、地方の児童は、ウランバートルの学校の寮で生活。四年制のモンゴル国立大学、大学での就学率男・三〇・九%女・・六九・一% 夏休み(五月末から八月末まで約三か月間、但し冬休みは一週間〜十日位、休みの期間は田舎の父母の下で生活、子供なりの役割があり、動物の世話をはじめみな良く働くとのこと。)

一方ウランバートルの子供たちは、四〜五歳の時から田舎のおじいさん・おばあさん(血縁者とは限らず)に預けられる(他人の飯を食べ、我儘もできず、甘えることもできない。自然に礼儀正しく.年長者を敬う子供に成長していくのでは?と思われる)。

 機内での気付き・・周りに数名の乳呑児が同乗、一人が泣くと次々に泣き出した。それを煩がる大人がいない。周りがにこやかにあやしていた、微笑ましい光景。日本ではどうだろう?

モンゴルの大地・・果てしなく拡がる大草原と遠くの山。雨が少なく乾燥しきっている。草も短い。一歩郊外に出ると、樹木は目に入らぬ。山の北側にいくらか見ることができるとのこと。

 七月四日 現地旅行社のニンジンさんの案内で草原を瞥見。その後歴史・民俗資料館(モンゴルの歴史の深さを再認識)、スフバートル広場と国会議事堂・オペラ座(この両施設は、かって抑留旧日本軍人が基礎工事をしたという)をまわり、昼食(湖の魚料理あり)。午後、映画「世祖フビライ神風」の試写会場フンヌー・モールへ移動。ソソルバラム氏はじめ映画スタッフ一同に親しく出迎えてもらった。彼の国の文部大臣・副大臣も同席。

 オープニングセレモニー

「馬頭琴の演奏と歌」に引き続き開会。初めにソソルバラム氏より映画「世祖フビライと神風」(蒙古襲来をドキユメンター映画で、対馬・壱岐・鷹島・博多方面その越の史跡・史料を駆使)の映画化に至ったいきさつ・事前準備から今日に至った経過等について挨拶と説明。次いでソドムジャムツ・フレルバータル駐日大使の挨拶。そのあと試写会。

バヤンゴンボテルにて晩餐会(駐日大使、駐米・駐仏大使夫妻、駐英・中韓大使、ソソルバラム夫妻、映画監督、映画スタッフ一同に私も同席した)。夜は同ホテルに宿泊。

 七月五日
 八時十五分、日本大使館付き通訳の大束氏の迎えを受け、ホテルを後にする。車にはソソルバラム夫人の運転で、カメラマン、大束夫人と私、五人での一日が始まった。

 ダンバダルジャーの日本人墓地公園を訪ね参拝

一九四五年十月、ソ連によりシベリアに抑留されていた旧日本軍人六十万人のうち、一二三一八人がモンゴル政府に引き渡され、二年間各地で強制労働に従事させられた。そのうち一五〇〇人以上が異郷の地で亡くなった。そして、それらの墓地が国内一六か所にあった由。それを最も多くの死者が葬られていたダンバルダルジャーに集められ、二〇〇一年に日本政府により慰霊碑が建てられている。

慰霊碑前の階段下に円形の壁に囲まれた広場があり、その中央の円形のステージに黒色大理石のモンゴル国土が嵌め込まれていて、一六か所の地名も刻まれている。そのステージには矢印が刻まれ、それは祖国日本の方角を指し示しているとのことであった。

特筆したいのが、この墓地公園の管理責任者オトゴンさんのことである。元モンゴル赤十字社事務局長であった氏は、モンゴル抑留中の死亡日本兵や、一九三五年のノモンハン事件で戦死した日本人兵士の遺骨収集と日本への返還に奔走された人で、此処をさらに立派な墓地公園にする計画の実現に向け、自己犠牲も厭わず資金集めまでされているとのことであった。

氏曰く、「お詣りに来てくれて有難う。その上、日本から雨も連れて来てくれて有難う」と。モンゴルは雨が少ない。深さ五〇メートルの井戸水での周辺の植物への毎日の水遣りは大変苦労している。だから、今日は大変ありがたいとのこと。此処では日本の松や桜は冬を越すことができず、すぐに枯れてしまうとも。モンゴルの赤松や桜、その他種々植樹されていた。モンゴルに来てよかった!オトゴンという人に会ったこともよかった。ただ感謝!

 チンギス・.ハーン騎馬像総合施設へ

ウランバートルから約六〇キロ、騎馬像は彼が生まれた故郷の東の方を向いているという。施設エリァ約二一二ヘクタール。騎馬像は高さ四〇m。一〇mの高さの台座の上に造られている。台座は全面ステンレスで覆われ、三六個の柱に囲まれた構造。台座施設から騎馬像の後ろ部分に位置するエレベーターで上にあがり、馬の頸部と胸部を通り抜け、馬の首部分にある開いたスペースに出ることが出来る。丁度馬のたてがみ部分にあたるところで、周りには、えも言えぬ美しい自然の絶景が拡がっていた。

そこへの途中、国道沿いの露店の出店で、ソソルバラム夫人から思わぬプレゼントを貰った。可愛いモンゴル人形(見ざる、言わざる、聞かざる一対)と、荘厳な音色の出るチベット密教の法具・シンキングボール(この倍音こそ人々の邪念・雑念を消し去り、音とともに明日に生きる力をもたらしてくれるという)。またここで広島から来たという二人の婦人にも出会った。

帰路、世界的にも著名な現代美術の大家、エルデネバヤルさんのアトリエに立ち寄った。夫妻と子息三人のアトリエとのこと。特に奥さんが有名だそうである。作品は、説明を聞けばなるほど、そうだな、そう見えるな、というものばかり。私には二度とない経験となった。

この後ソソルバラム氏のスタジオに立ち寄り、氏の案内で国立民族歌舞団の舞台を鑑賞した。民俗性の一端を表現した歌・踊り・オーケストラの演奏は真に素晴らしいものだった。

・最後にアリウナア・ソソルバルトラムさん宅へ。モンゴル最後の夜、ソソルバラム夫妻と娘さん、駐日・駐仏大使、通訳の大束氏夫妻と和やかに会食。楽しいひと時であった。お開きが午後の一〇時三〇分過ぎ。でも外はまだうす明るかった。

その夜の話に、モンゴル人は嘘は言わない。三年前に私をモンゴルに招待する、と言つたこともそのひとつ、と。察するに、私がソソルバラム氏の田舎のお爺さんによく似ていた、というのが決め手であったの?と感じる場面があった(恩義のある人や年長考には絶対的な畏敬の念を抱いているから)。

また、今年は無理だが九州場所後に必ず壱岐に白鵬(すでに予定あり)を連れていく(駐日大使)と。立派な文化ホールがあることを伝えると、いつの日か民族歌舞団のメンバークラスの芸能人を壱岐に連れて行くこともできる、とソソルバラム氏の言。大げさに聞こえるが、先方はいたって真剣であった。ちなみにソソルバラム氏は、七月一○日過ぎに音楽の演奏者一行を伴って、アメリカ公演に行くとのことであった。

 七月六日 いよいよ帰国の日を迎えた。朝六時五十分氏の娘さん宅を出発、彼女の車でウランバートル国際空港(チンギスカン空港)まで送ってもらい、午前八時五十五分発にて十三時西十分無事成田国際空港に到着。十七時四十五分成田発十九時五十五分福岡空港着。博多泊。

七月七日 出発以来五日目に無事帰宅。なお本来ならば一時間の時差があるところ、今年からモンゴルではサマータイムが実施されており、時間の修正も必要なかった。

 ソソルバラムと言う人物
七月五日朝、ホテルを出て日本人墓地に向かう途中、氏から通訳の大束氏に電話が入り、私に代われとのこと。互いに言葉は通じないのに声だけでも聴きたい、私が元気であることを確かめたいという氏の心遣い、氏の心根の優しさをいやというほど感じ、涙が出るほど嬉しい一瞬であった。なんとも素晴らしい人物である。

また、夫人も負け劣らずの人物。今朝は朝が早かったので、私が十分な食事もとっていないのでは?と気遣い、口に合うような日本人向きの混ぜ飯風の食事を作って持参されていた。それをチンギスハン騎馬像記念館前の駐車場の車の中で皆と一緒にいただいた。味付けばっちり、美味しく腹いっぱい食べさせてもらった。

ソソルバラム氏と夫人は、夫唱婦随、共に信頼し合い、傍目も羨む素晴らしい夫婦であった。

 関係者への感謝
終始通訳をしてもらった大束夫妻には、旅の前から何かとお世話になった。この二人の存在がなければ、モンゴルへの理解も楽しさも半減していたに違いない。空港での出迎えから一日目の案内をしてもらったニンジンさんにも大変お世話になった。流暢な日本語で終始にこやかに、内容豊富な案内ぶりは実に見事、楽しく有意義な時間を過ごさせてもらった。

彼女は日本の事情にも詳しく、かって元冠七二〇年記念事業の時(平成十三(2001)年?)壱岐に来たことがあるとのことであった。

終わりにモンゴルに行くべきか、行かざるべきか。正直迷いもしたが、行ってよかつた!モンゴルの人々との感動的な出会い、あの広々とした大草原、乾燥しきった大地、日本人墓地の静かなただすまい、オトゴンさんの存在等々は何物にも代え難いし、また、モンゴルのよって来る歴史の深さ等々を認識させられた旅でもあった。

ソソルバラム夫妻から、また来てください、今度はゆっくりとねと言われ、何だか他人ではないような気分にさえなった。叶わぬことではあるが、もっとゆっくりしたい所であった。ソソルバラム夫人曰く「今度は貴方の壱岐にいきます」と歓迎! 歓迎!