産経新聞正論・軍艦「三笠」の艦橋に立って
      文芸批評家 都留文科大学教授 新保祐司 平成20年(2008年)11月24日月曜日

シベリウスにさそわれて
 このところ、フィンランドの大作曲家・シベリウスについて批評文を書きつづけているが、シベリウスの有名な交響詩「フィンランディア」をとりあげ、その時代背景としてロシアからの独立運動のことに筆が及んだとき、ふと横須賀に軍艦三笠を見に行きたくなった。

 フィンランドは、12世紀から19世紀初頭までは、隣国スウェーデンの支配下にあった。1808年、ロシアのフィンランドヘの侵入をスウェーデンが撃退できなかったため、1809年以降ロシアに服属することとなった。完全な領土化は免れ、大公国待遇ではあったが、ニコライー世の時代から圧迫は強まり、ニコライ2世の治世になると、フィンランドの自由は次々と奪われ、属領化策が強引に推進され、フィンランドでの愛国運動の高まりが激しくなった。

 シベリウスの音楽、特に「フィンランディア」はそのような時代のただ中で生まれてきたものであり、たしかに芸術は時代を超えるが、時代を超えたところばかりを聴いても正しくはあるまい。日露戦争での日本の勝利の後、ロシアに革命が起こり、ついにフィンランドは1919年に完全に独立国となった。日露戦争とフィンランドの独立は、こんな風につながっている。

「小さな国」日本の象徴
 そんなことで、横須賀の海に浮かんでいる軍艦三笠に乗ってみたくなったのである。東郷平八郎元帥の銅像の向こうに三笠が海辺に係留されている。思いの外、小さな船であった。日本海海戦の旗艦をつとめた三笠が、こんなにも小さなものであったことにふと胸をつかれる。日露戦争を描いた司馬遼太郎の『坂の上の雲』の書き出しは、「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」であった。三笠の小ささは、この「小さな国」日本を象徴しているように思えた。

 軍艦の中を歩きまわったあと、艦橋に昇った。その床に、東郷平八郎、艦長伊地知彦次郎、参謀秋山真之などが立っていた位置が書きこまれている。三笠の艦橋は、吹きっさらしである。当時の軍艦はそのようなものだったのであろうが、戦艦大和の艦橋の如きものを漠然と思っていた私には、ここに東郷平八郎が長い時間、立ちつづけたという事実の重さが一段と感じられた。『坂の上の雲』には、「艦橋にある東郷は、一文字吉房の長剣のコジリを床にコトリと落し、両足をわずかにひらいたまま動かなかった。足もとの床は飛沫でぴしょ濡れであった。ちなみに東郷は戦闘がおわってからようやく艦橋をおりたのだが、東郷が去ったあと、その靴のあとだけが乾いていたという目撃談がある」とある。攻撃開始からだけでも5時間以上、東郷が立ちつづけた艦橋は、吹きっさらしだから、実際に立ってみると、歴史の中に吹きっさらしになったような気がする。司馬は「艦橋は、ずいぶん高所にある。眼下に前部主砲の砲塔があり、二本の主砲がつき出ている。艦橋の床は木製で、スペースは狭く、艦橋のまわりは簡単な柵でかこまれ、ハンモックで防御されていた。それだけであった。まわりは吹きっさらしで、高所恐怖症の者なら気が遠くなるような高さの露天台である」と書いている。

「明治の精神」に出会う
 その艦橋に立って、横須賀の海を眺めていると深い感慨に襲われた。福田恒存はかつて日露戦争の戦跡、爾霊山を訪ねたときに「眼頭が熱くなるのを覚え」たと書いたことがあるが、私も同じだった。海風に吹かれながら、床のに立ちつづけていると、「明治の精神」が足元から体の中を立ち昇ってくるようであった。とある店に入って、「東郷ビール」を飲む。かつてフィンランドの工場で製造されいたが、今日はラベルだけ活かして日本の会社が作ってるらしい。小林秀雄は「無常といふ事」の冒頭に、比叡山の山王権現で鎌倉時代のある文章を思い出し、坂本でそばを食ながらもあやしい思いがしつづけたと書いた。そして小林は鎌倉時代を思い出したが「東郷ビール」を飲んでいると、日露戦争の時代がまざまざと思い出されるようである。これからの日本は、厳レ国際情勢の中でますます吹っさらしの中で生きなくてならなくなるであろう。とするならぱ、日本人は、日露戦争の時代に強く出現した「明治の精神」の上にしっかり立たなくてはならないのでないか。(しんぽゆうじ)2008.11.24


参考:東郷ビール
このビールが初めて売り出されたのは第2次大戦後,1970(昭和45)年のことで,日露戦争から65年後のことです。決して明治ではありません。

ブログ「千葉発日台」http://blogs.yahoo.co.jp/chibanittai/43861350.html

東郷ストリート:三笠の生地にはミカサ・ストリート、トルコのイスタンブールには東郷ストリートもあると
聞きました。


何という日本人は忘恩の国民なのだ。


戦い敗れると、ツシマの英雄トーゴーとミカサのことも忘れてしまったのか。

神聖なるミカサが丸裸となり、

ダンス・ホールやアメリカ兵相手の映画館になったのを黙ってみているのか。

何たる日本人は無自覚であることか。