マッカーサーの二千日  袖井林次郎著(中央文庫)
・・・・・・しかし軍事総督アーサー・マッカーサーとしては、ゲリラの襲撃による死傷者報告が毎日のように届けられる状態では、民政移管は問題外であった。フィリピソ人民にはその準備はないとし、最低十年間の軍政が必要だと信じていたアーサーは、タフトをマニラ港に出迎えることもせず、到着後も二人の間には絶えず対立が続いた。結局一九〇一年七月四日(アメリカ独立記念日)を期して民政移管が定められ、アーサーはその前に本国に召還される。初代のフィリピソ総督はほかならぬタフトであった。ダグラスは父を理想の人格として生涯を通じて尊敬しており、その勇気、指導力、行政能力をそっくり引きついだといわれる。しかし彼は同時に父の資質に含まれていた二つの欠点も引きついでいた。それは、「自分の領域と見なしているところへ文官が口をさしはさむことに対する軽蔑と侮蔑、そして自分の管轄権を越えた問題に対して遠慮ない発言を行たうこと」()であった。この父にしてこの子あり。二人を知るものは親子を貫く強烈な個性についてこうもいうーー「わたしはアーサー・マッカーサーほど、とほうもなく自我意識の強い人物はないと考えていた一ーとにかくその息子に会うまではね」()。

オレンジ戦略案のはじまり
本国に召還されたアーサー・マッカーサーは各地の軍管区司令官を歴任しながら欝々たる日々を送らなければならたかった。そういう場合父親の残された希望が息子に向けられるのは当然である。ダグラスは一九〇三年六月、士官学校を二十五年以来という優秀な成績で卒業し、父の期待に応えていた。太平洋岸方面軍司令官としてサソフラソシスコ勤務中の父のもとで卒業休暇を楽しんだダグラスは、優等生に許された特権として工兵隊勤務とフィリピソ行きを願い出て許された。それは人もうらやむスタートであった。卒業式においてルート陸軍長官は「米国の歴史に見られるあらゆる前例からおして、諸君は将来陸軍を去るまでにかならず戦争に参加することになる」と演説したが、当時のアメリカ軍人にとって少しでも硝煙の臭のするところは、ゲリラの出没するフィリピソだけであった。

マッカーサーはフィリピソに魅せられた。彼が「第二の祖国」と呼ぴ、その防衛と奪還に人生の多くをついやすことになるこの国とのかかわりあいは、ほとんど運命的である。「一年の任期中、私は群島のあちこちで典型的な工兵隊の任務についた。タクロバソの測量、マニラ湾の港湾改良、コレヒドール沖の要塞構築、バターソの密林におおわれた丘を横断する道路建設、ギマリス島のイロイロ港入口での波止場とドックの構築作業などだ」()。

三十八年後マッカーサーはこれらの基地に拠って日本軍に抵抗を試みるのである。この任務期間中に、彼はサント・トーマス大学法科を卒業したばかりの二人のフィリピソ人、マヌエル・ケソンとセルヒオ・オスメニアと知り合った。二人は後に相ついで連邦大統領となり、マッカーサーと生涯にわたる友情が続くのである。

翌一九〇四年、マッカーサーは中尉に昇進したが、マラリアを病みサソフラソシスコの金門湾防衛を命じられて十月帰国する。日本と帝政ロシアとの間の戦争はすでに始まっていた。満州におけるロシアの勢力をおさえるため日本の勝利を期待していたルーズベルト大統領は、戦闘を実際に観察するため双方に観戦武官を送った。日本へ送られた八人の武官は、パーシソグ、マーチなどのちに参謀総長となる俊才が多かったが、アーサー・マッカーサーは最初それに含まれていなかった。熱心な運動によってようやくおくればせに派遣されたマッカーサー将軍が、満州の戦線に到着したのは一九〇五年三月半ぱ、奉天大会戦はもう終っていた。

奉天大会戦、日本海海戦と相つぐ勝利は、日本に対するルーズベルト大統領の警戒心をつのらせた。勢いをかった日本軍が南方進出を企てるのではないかと恐れた大統領は、七月に陸軍長官タフトを「フィリピソ視察」の名目で日本に派遣し、桂首相との間にひそかに「桂=タフト協定」を結ばせた。一口にいってその目的は、アメリカが韓国における日本の権益を保障するのと引換えに、日本はフィリピソに関して絶対の保障を与えるというものであった。こうしてアメリカのアジアにおける植民地は、日本にとって人質の役割を果すことにたる。そのうちにアメリカは「桂=タフト協定」でも安心できたくなり、三年後の一九〇八年、ルート国務長官と高平全権大使との名で「高平=ルート協定」を結び、再ぴ日本にフィリピソとハワイの権益保存を保障させようとする。このとき日本が反対給付としてかち得たのは、日露戦争で手に入れた満州の権益を保全するという約束であった。

フィリピンはアメリカにとって戦略的負担であった。セオドア・ルーズベルト大統領は、この群島をアメリカの戦略体系における「アキレスの踵」と呼んだ。日本の脅威を絶えず心配しなければならたいこのフィリピソの地位について、アメリカ政府は外交交渉一本槍でのぞんだのではない。一九〇四年日本がロシアを攻撃した直後に、米陸海軍統合会議は一連の戦略計画をたてはじめた。これがやがていわゆる「カラー・プラン」に発展するのである。仮想敵国を色名で呼ぶこの計画の中で、日本にあてられた色はオレソジ。日本の脅威から太平洋の米領土を防衛することを中核とする、この「ウォー・プラン・オレンジ」すなわち「オレソジ戦略案」は、カラー・プランの中で圧倒的な比重と現実感を持っていた。だが「オレソジ戦略案」の根底には、フィリピソの防衛は最終的には不可能であるという考えが横たわっている。ダグラス・マッカーサーの後半生は、この「オレソジ戦略案」への挑戦に多くが費されるのである。

参考:オレンジ計画http://jinja.saloon.jp/HTML/OrengePlan.htm

日本に対するアメリカの利害は単純ではなかった。政府が日本の進出を恐れる一方で、日本が得た満州の権益に割りこもうとする米資本の動きは活溌だった。タフトの訪日に続いて、アメリカの鉄道王エドワード・ハリマソは駐日アメリカ大使グリスコムの招待というかたちで一九〇五年八月三十一日日本を訪れる。日露戦争の戦費をまかなうため日本が海外で募集した戦時公債を五百万ドルも引受けた実績を持つハリマソが、このとき日本へ乗りこんで来た真の目的は、南満州鉄道の買収にあった。当時日本の政府には日露戦争の結果得た満州の権益を自力で経営する自信がなく、元老をはじめ桂内閣もアメリカ資本の導入を渡りに船と歓迎したのである。ハリマンの計画は単に南満州鉄道を買収するだけでなく、それを起点にシベリア鉄道を経てヨーロッパヘ、さらに汽船連絡によって世界一周鉄道を実現するという壮大た構想であった。話合いは、順調に進み、十月十五日には、かたちだけ日米平等のシソジケートを経営体とする南満州鉄道運営に関する予備覚書が、桂首相とハリマソの間に交換された。ハリマソは勇んで帰国の途についたが、ポーッマス講和会議から入替りに帰国した首席全権小村寿太郎は、これに猛然と反対し、ついにその契約を破棄させることに成功する。小村がそうした強硬な発言ができたかげには、満鉄の自主経営を可能にする資金の手当がモルガソ系銀行によって保証されていたからであるが、ともあれハリマソは船がまだサソフラソシスコヘ着くまえに、予備協定破棄を電報で知らされる。太平洋を東へ向かうハリマソの船と行違いに、横浜に向かう船の中には日本へ赴くダグラス・マッカーサー中尉の姿があった。

日露戦争にこれより先八月アーサーは、ポーッマス会議の開始とともに妻メリーの待っている東京へ行き、駐日アメリカ大使館付武官のポストにつく。タフト長官の滞日中にアーサーは、息子のダグラスを自分の副官として日本へ派遣するように取りはからって欲しいとたのみこんだ。フィリピソでは対立した仲であったが、タフトはそれを聞入れ、ダグラスは十月十日サソフラソシスコを出港して日本へ向かうのである。日露の講和条約はすでに九月五日ポーツマスで調印されていた。ところが「おくれて来た青年」ダグラスは、自分の果した「任務」を次のように回想するのだー

「十月のはじめに私は突然、日露戦争観戦のため日本に派遣されている私の父のもとへ行けという命令を受けた。私はこの観戦で多くのことを見、聞き、学んだ。英人の観戦者イアソ・ハミルトソが生々しく描写しているように『す早い進撃。部隊が展開された。すさまじい攻撃。英雄的な白兵戦。しかし防衛陣地は頑強だ。ひたすらに進撃する密集した部隊。飛び交う砲弾、するどい小銃の弾丸の音をものともせず、ただひたすらに前へ。真っ赤た戦場。いたるところにちらばる真っ白た死体』も見た」(前携「回想記」上)1彼は船の中で白日夢を見ていたのだろうか?もともとこの回想記は、彼が八十四歳で死ぬ少しまえに完成したもので、空疎で事実の間違いも多く、事績の自己評価をめぐって多くの議論をひき起した作品ではある。しかしたとえ六十年経って書かれた回想記にせよ、見なかった戦争を、どうして見たと書けるのだろうか。フロイト流にいえば、これはついに見ることのできなかったこの戦争を、マッカーサーがどれだけ見たいと熱望していたかを示すなによりの証拠なのであろう。彼は自分が信じていることを人に信じこませることに長けていたといわれるが、ここでは自分自身をもだましていたのかも知れない。マッカーサーが日露戦争を観戦したという「伝説」は、アメリカ陸軍の中にかなり浸透していたようである。いくつかその証拠もあるが、マッカーサー自身が「伝説」の創始者だったのではないかという疑いが濃い。その伝説が極端なかたちをとると、第二次大戦中に流布した数々の英雄マッカーサー物語にみられるように、ダグラスは観戦しただけでなく、みずから奉天大会戦の戦闘に指揮をとった、という神話にふくれ上る。その一つを紹介すればー「マッカーサー〔もちろんダグラス〕は、これらの、つましく、疲れを知らぬ、朴訥な愛国者たちと、ともに食事をし、ともに眠った。…一奉天の戦いはこのアメリカ人に戦聞の巨大な規模を測る新しい物指を与えることになった。と同時に、少くとも日本軍の一隊とその将校たちは、マッカーサー中尉の印象を心に一生焼きつけられることになったのだ……激戦の最中、乃木将軍の司令部にいたアーサー・マッカーサー少将のもとに、御子息を安全地帯に戻していただきたい、という鄭重な指令が届いた。最初マッカーサー少将は理解しかねた。ダグラスはこの壮大な決戦がよく見えるようた場所を求めて安全な司令部からはなれたのだと、少将は考えた。事実、ダグラスはまさに、そうしたのだ。しかし、日本軍の一隊が、近くの丘の頂に陣どるロシア軍を攻略しようと迫りながら、五度も失敗するのをみて、彼の軍人としての本能は、それを見ておれたくなり、はち切れそうな競争心は我慢ができたくなってしまったのである。そこで、合衆国陸軍工兵将校ダグラス・マッカーサー中尉は、戦場をかけぬけてその日本軍部隊に身を投じ、彼らの沈滞した士気をもう一度かりたて、自ら指揮をとり、新しい攻撃路を切り開いて丘をよじのぽり、ついにその頂にあるロシア軍砲台を攻略したのであったー・・・」()

すべてのデマはなにかの種子から生れる。この神話の種子を蒔いたのは、マッカーサー父子ともどもではないかという疑いさえ生れる。父アーサーも奉天大会戦を見逃している。見たかっただけではない。あの戦いを指揮したかったという思いがここからうかがえないであろうか。ともあれ、ダグラスが入港して横浜のオリエソト・パレス・ホテルで両親に久しぶりに会ったのは十月二十八日のことである。

「私は大山、黒木、乃木、東郷など日本軍の偉大な司令官たち、あの鉄のように強靱な性格と不動の信念をもった、表情のきびしい、無口な、近づき難い男たちに、ぜんぶ会った。そして日本兵の大胆さと勇気、天皇へのほとんど狂信的た信頼と尊敬の態度から、永久に消えることのない感銘を受けた」(「回想記」上)たとえこれが事実だとしても、ダグラスがこの将軍たちと会ったのは、日露戦争の直後ではない。というのは、マッカーサー一家三人は、ダグラスの日本到着三日後に、横浜を発ち京都、神戸を経て長崎から船でアジア「偵察旅行」に出かけてしまうからだ。

この旅行はシソガポールからマレー半島をさかのぽり、ジャワ、ビルマ、さらにイソドはヒマラヤの麓からボンベイまで、ついでセイロソ、タイ、仏印から中国全土にわたる、各国の軍事基地の視察を主とした、八力月に及ぶ大旅行であった。これはタフト陸軍長官の命を受けたことになっているが、正式の報告書はついに提出されず、一体なにを目的としたものなのか・マッカーサーの最新の伝記作者ジェームズも首をかしげている。しかし、この視察旅行によってマッカーサー親子、とくにダグラスは、アメリカ軍部で数少ないアジア通を主張することができた。彼がトルーマンに解任された後まで「現存するアメリカ人の中で自分ほど極東を知っているものはない」といいきる自負は、この時の旅行に始まるのだといってよい。翌一九〇六年六月末、日本へ戻ったマッカーサー一家は東京と横浜で三週間を過した。

日露戦争の武将たちに会ったのはその時のことである。戦闘の最中もしくは直後に会うのと終戦一年後もはや戦闘の興奮がさめかかってから会うのとでは、彼らについて受ける印象は当然に違う。日本人が示す軍人としての威厳と尊大さは、人間のすべてがむき出しになる修羅場よりも、むしろ勝利の輝きだけが残る平時のさいにことさら強まるのではあるまいか。だとするとアーサーはまだしも、ダグラスの抱いた日本の「名将たち」の印象一ーそれはマッカーサーの生涯の言辞を貫いてリフレインのように響き渡るのだが一ーは、彼がかくあれかしと心の中で作りあげた、虚像により近いものではなかったろうか。ともあれ、彼にとってこの上ない収穫をもたらしたアジアの旅は終った。一家は七月十七日、横浜からサソフラソシスコヘ向けて出帆する。外務省電信課長幣原喜重郎はたまたまその日波止場にアメリカの外交官の帰国を見送るために来ていた。

「その外交官が、この船に乗っている青年将校で非常に優秀なのがいる。是非紹介したいというので会いましたよ。身長は六フィート以上ありましたか。愕くようた美男子でしてね。……僅か二言三言話したきりで別れましたが、その態度というか挙措にいわゆる俊爽の風がありましてね。なんとも印象的でした……。たしかマッカーサーといって紹介されましたよ」後にマッカーサーの二千日の治政のもとで首相となった幣原四十年後の回想だという(神田武雄マッカーサー伝」『旋風』第3号)。

マッカーサーの美貌について異議をはさむ人間はいない。しかし彼の身長についてはかなりの議論がある。そして決まってその議論では、マッカーサーを尊敬する者は長身だといい、そのショゥマソシップに鼻白む者は平均以下だといいはるのは面白いことである。ノーフォーク市にあるマッカーサー記念館のある役員が著者に語った「元帥は五フィート十一イソチ(一八○セソチメートル)だった。アメリカ人としては平均だが、いつも大きく見せるすべを心得ていた」というコメントは、マッカーサーの性格についてなにかを説明するのではあるまいか。

母メリーの愛
アメリカヘ戻ったマッカーサー父子に、しばらくは旅の興奮と使命をはたした栄光がただよう。ダグラスは間もなくホワイトハウス付武官となった。新渡戸稲造の『武士道』に感じ入る一方で日本の進出に心を悩ますルーズベルト大統領に、彼がアジアに関する知識を大いに披露したことはいうまでもたい。一方、アーサーは米軍でただ一人の中将に昇進したが、期待していた参謀総長への任命はついになかった。今は陸軍長官であるタフトとの昔の対立が大きくひびいたといわれる。東部軍司令官の任命を断ったアーサーは、ミルウォーキ、市に赴きそこで来るべき命令を待て、という指令を受ける。明らかな棚上げである二年間のミルゥォーキ、滞在は空しくすぎ、彼はひどい胃酸過多症をわずらうにいたった。ダグラスは一九〇八年フォート・レーヴンワース勤務という、出世コースヘ乗るが、尊敬する父のスランプが乗り移ったのか、成績は下る一方であった。タフトがルーズベルトを継いで大統領に就任した三月後の一九〇九年六月、アーサー・マッカーサーは四十七年に及ぶ軍役に終止符をうってひっそりと退役した。

アーサーの賢夫人であり、今は息子ダグラスの出世すべてを託すメリー夫人は、自分で陸軍に見切りをつけるにいたる。彼女はまえに東京で会った鉄道王ハリマンにあてて一九〇九年四月七日次のような手紙を書くのである。

「親愛なるハリマン様
私は一二年前に東京でグリスコム大使御招待の昼食会であなたのお隣に坐る幸運に恵まれました。あのとき息子ダグラス・マッカーサーが陸軍をはなれたばあい、どのような将来があり得るのかを話題にいたしましたとき、私の申上げることに、心から耳を傾けて下さいましたあの時の御様子に力づけられて、お手紙を差上げる次第でございます。特にあなたが一流の人間にはいつでも需要があり、そういう人材を自分でも絶えず探しているとおっしゃったことを思い出したのでござします。あのとき申上げました私の息子は二十九歳で、ウェストポイントを一九〇三年六月に、九十四・・・・・・・・