明治維新以降、日本のみでなく、アメリカ、イギリスなど他の主要国も軍備増強につとめました。
そこで第一次世界大戦後の1922年(大正11年)、ワシントン軍縮会議で、米、英、日の主力艦の所有率を「5:5:3」とすることになりました。
日本では、その結果、戦艦土佐などの主力艦を廃棄することになりました。
しかし、軍艦を廃棄するのはしかたがないにしても、軍艦の主砲は保存したいと思った軍部は、軍艦の主砲を利用して、秘密要塞をつくることにしました。
壱岐では、ここ、黒崎半島に砲台を造ることになり、用地買収を進め、用地買収の後は、陸軍2個中隊の他は、だれも通ることができなくなりました。
昭和3年8月から造り始め5年間かかって昭和8年に完成しました。山をくりぬいて造った地下7階建ての大きな砲台です。
設置された砲台は、戦艦「土佐」に搭載されていた主砲です。
このあとこの戦艦「土佐」は改造され航空母艦「赤城」となります。
さて、完成した砲台は、砲身の長さ18.83m、口径41cmの2連砲の砲台で1tの弾丸を35kmも飛ばすというとてつもない巨砲でした。
砲台の設置には地元の人達もかり出され、沼津小学校の児童達も毎日石拾いをしてコンクリートに混ぜたりして、砲台の奉仕作業をしたものでした。
180発の砲弾を準備していました。
2分間に一発発射でき、8発打って1発あたればよいという計算をしていました。
一発の大砲を射つために地下3階(14m)にわたって数100人が働いていました。
対馬海峡を航行する艦船を攻撃するための要塞砲として作られ、玄海灘をすべてその射程内においていたほどの巨大砲でした。
同じような砲台は、対馬にも造られ、壱岐と対馬の距離はおよそ68kmなので、玄界灘を通る軍艦は全部その射程距離に入っていたことになりなす。
砲台は、使用しないときには、地下に潜っていて、地上に出ているのは、射撃室だけでした。
実はこの砲台、試射のみで、実戦には使われませんでした。
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