権威は皇室に連綿として在る 中国皇帝はあくまで権力者 立命館大学教授 大阪大学名誉教授 加地伸行 中国の皇帝と言えば・絶対的権力者というイメージがある。確かに皇帝は権力の最頂点に立っている。しかし、権力を振るったあの秦の始皇帝といえども、すべて独断専行したわけではない。 例えば称号についての審議を重臣に命じ、重臣は有識者の意見を聞いてから、「皇帝」という称号が妥当という答申をしている。その後の歴代皇帝も、一般に、重臣との会議(朝議)の上に立って決断している。そうするのは、皇帝の地位が永遠に安泰というわけではな かったからである。例えぱ、歴代皇帝208人の内、臣下に位を奪われて殺されたり、王朝が倒れて自殺した者は63人。この他、病死者の中に毒殺されたという噂のあった場合を入れると、無念の死者はさらに増えよう(樸人の帝王生活』。 王朝の最後は無惨である。例え明王朝最後の永暦帝は清に敗れて今のミャンマーに逃亡していたが、清王朝はミャンマーに兵を入れて恫喝し、帝や皇太子を捕らえ、ともに斬首した。皇太子わずか12歳。それだけに終わらなかった。それから55年後のこと。ある王子は逃れて生き延び隠れていたのだが発見され処刑された。76歳の一農夫としてやっ.と生活していたのに(同『帝王生活続編』)。 歴史や人間の在り方に差 このような権力闘争と異なり、我国の皇室は別の道を歩んだ。時を遡ると、奈良時代、中国の律令制に倣って我国も律令制にし科挙制を立てた(考課令)。科挙め制とは秀才・明経(めいけい)・進士(しんじ)・明法の科ごとに試験選抜して、合格者を中央官僚に任用する制度である。これは中央集権化するために必要な人材を得る方法であった。 しかし、我国では成功しなかった。と言うのは、律令制は国家が土地を所有して中央集権を図るわけであるが、まもなく荘園という私有地が現れ、それが拡大され転形して、実力で土地を私有する武士団が登場し、律令制が空洞化してしまったからである。その極致が江戸時代の藩である。藩主は将軍家に従って土地を所有し、一方、朝廷から律令制に基づく位階を受けた。実(土地)は私的、名(位階)は公的という形だ。これが実は我国に幸いした。各藩の行政官僚は武士であり、末端に至るまで藩主に忠誠心があった。そして明治時代となり廃藩になるものの、多くの元武士官僚が明治政府の官僚となったとき、藩主への忠誠心が天皇へのそれへと平行移動したのである。その結果、日本の官僚は公の精神が強く、私することが少ない。 ところが中国の場合、科挙官僚は皇帝に対して強烈な忠誠心があったが、ごく少数であり、圧倒的大多数の一般官僚には忠誠心を培う機会も環境もなかった。そのため、一般官僚には公の精神が乏しく、私すること(収賄)が多かった。それが今に至っている。つまり、公務員の汚職発生が、中国では多く日本では少ないのは、律令制の実質化(中国)と形式化(日本)との差が背景にある。その上、律令制の実質化は皇帝に権力・権威をともに保証したが、律令制の形式化は天皇から権力を削ぎ落とした。この律令制は明治維新まで続いたので、位階を与える等の権威は存続した。 権力を持つ幕府も天皇の権威をついに奪うことはできなかった。天皇には、少なくとも室町時代以降、権力がなかった。一方、中国皇帝には権力があったので、それを奪おうとする者が現れる。これが日中両国の歴史や人間の在りかたの大きな差となってくる。 政治的安定もたらす中核 すなわち、日本では、権力の交替があっても、天皇の権威は奪われず常に権力の上に立ってきた。中国では、王朝の交替とは権威・権力の両方を奪うことであった。今日、世界の正常な国では、政権(権威.権力)は民主主義すなわち選挙方式によって承認される。だから、選挙結果によって権威・権力を失うことがある。そのとき、一種の不安定な政情となる。しかし、我国はそうではない。我国の政権には、権力はあるが権威はない。首相は権力者ではあるものの、権威は皇室に在る。 現代日本人はどの首相に対しても敬意を払わない。首相に権威を認めていないからである。だから、首相がいくら交替しても、権威は不動であるので国家として不安定とならない。これが我国の底力となっている。我国はどのような危機に際しても、権威の不動によって政治が安定しており、必ず立ち直ることができたのである。それはこれからもそうであろうし、またそうでなくてはならない。 その意味で天皇は政治における中核として内在している。単なる文化的権威や祭祀者に終わらない。それが証拠に、ほとんどの日本人は、権威ある天皇を元首として意識しているではないか。これは強制や法制によるものではない。皇室に対する絶えざる自然な敬意に基づくものなのである。天皇、皇后両陛下のご成婚50年を機に、そのことをしみじみ噛みしめている。(かじのぶゆき) |