東京雪州会創立90周年を記念して

いま問われる政治家の志@
議員は高邁な気概と先見性を   牧山康敏

 
春の統一地方選挙が終わり、通常国会も後半の論戦に入った。次はいよいよ七月二十二日の参院選挙に向けた政治決戦「夏の陣」が迫る。この時期、改めて国会・地方議員に求められる政治家の志について考えてみたい。いま「品格」ものの本が話題を呼んでいる。火付け役は大ベストセラーとなった藤原正彦氏の「国家の品格」。また「政治の品位」(内田満著)、さらには「女性の品格」(坂東眞理子著)まで登場。いずれも関心を集めている本だ。筆者に他人様の「品格」を語る資格などない。また、それほどの自惚れもない。ただ選挙で選ばれた国会議員や地方議員の「志」や「品格」について論ずることは許されてよいと思う。

 閣僚や与野党国会議員の中には経費処理をごまかして国民の税金流用と指摘される不届き者がいる。これら議員は論外の限りと言うほかない。また国会論戦では党利党略の域を出ず、国家百年の大計を踏まえた深い議論が少ない。憲法改正問題をとっても与野党とも賛成、反対と叫ぶだけだ。かつて与党で改正論を主張した議員が野党に転ずれば改正論議に異を唱える。政治には時に駆け引きも必要だろう。しかし、それには節度が求められるはずだ。理念もなければ信条もない。これを、こ都合主義の党利党略といわずして何というのか。政治哲学に欠け、歴史観や国家観に乏しい政治家に、この国の将来を託すことが出来るであろうか。

 現憲法施行後、今年で六十年である。この激動する時代に六十年間も、日本国憲法は一切改正されていない。同じ第二次大戦の敗戦国ドイツは五十回以上改正(東西両ドイツ合併前も含む)されているのだ。他国はどうであれ、現憲法には護るべき優れた条文もある。ただ時代の変化に即して改正すべき箇所が多いのも事実だ。国家の背骨である憲法問題を如何に考えるか。委曲を尽くし論議を深めることは国会議員の使命であり、義務である。

 筆者は現憲法施行六十周年記念を機にこの五月上旬、国会議事堂院内と憲政記念館に久し振りに足を運んだ。今から二十数年前、昭和五十二年からほぽ五年間、国会開会中は衆参予算委員会や本会議を取材し、総理大臣会見(首相官邸)や閣僚会見に臨んだ経験がある。その後も何回か訪れてはいるが、かつて取材で競い合った懐かしい「戦場」でもある。

 それはともかく憲政記念館では明治維新以降の政治家たちの足跡や、帝国憲法および現憲法成立の過程が克明に紹介・展示されている。それを見るにつけて政治家の志と品格に思いを致した次第である。犬養毅首相(昭和七年五月十五日暗殺)とともに「憲政の神様」と称され尾崎行雄翁(雅号は咢堂)の言葉が印象的だ。「人生の本舞台は常に将来に在り」「現在なしていることは、すべて将来に備えてのことである」一と将来を見据えた信条を揮毫している。咢堂翁は明治二十三年の第一回総選挙まで二十五回連続衆義院議員当選を果たした。

 昭和二十八年の第二十六回総選挙で九十四歳にして初めて落選するまで衆義院議員在籍は実に六十年七ヵ月に及ぶ。まさに議会の申し子とでも言うべき政治家である。東京市長時代の明治四十五年、米ワシントン市に桜の苗木を寄贈したことでも有名で、その桜は今、ポトマック河畔で日米親善の花を咲かせる。(つづく)ジャーナリスト・東京雪州会副会長兼幹事長
                         情報源:壱岐日報 平成19年(2007年)5月16日
いま問われる政治家の志A

議員は高邁な気概と先見性を   牧山康敏

 戦後は「狭い民族主義や国家主義を捨て世界主義の立場をとらねばならない」と説き、老いてなお高い志を失わず、世界連邦の創設を提唱した。九十五歳で死去。高邁な志と先見性を語る場合、私達の故郷壱岐が生んだ電力王・松永安左工門翁を忘れてはなるまい。翁は一時、衆院議員も務めたが生粋の政治家ではない。偉大なる経済人にして文化人でもある。しかしその先見性と行動力に裏打ちされた発言力は政治をも衝き動かした。

 昭和二十六年、時の最高権力者ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官や吉田茂首相を説き伏せて、全国九電力体制を確立。これにより電力エネルギーの安定供給が実現し、今日の日本経済の繁栄と国民生活向上の礎を築いたのである。また翁は原子力発電の必要性や国鉄民営化、東京湾横断道路建設計画などを昭和三十年代に提唱し、現在これらはいずれも実現している。

 咢堂翁と安左工門翁は戦時中、軍の戦争拡大路線に反対し、軍部に睨まれた。しかし最後まで反骨精神を貫き、信念を曲げなかったことでも共通する。政治家たるもの、国会議員であれ地方議員であれ、今ほど志と品格が求められる時代はないのではないか。国会議員は国民の生命と財産を守り、平和な国家を如何に発展に導くかを念頭において行動することだ。そのため自らの志を国民に示して審判を仰ぐ。かつて明治期以降から戦後まで、咢堂翁以外にも真剣に国家と国民のために心血を注いだ政治家も数多くいた。残念ながらここで列挙する紙数はない。

 その意味では来るべき七月の参院選はまさに国民の良識ある選択が試されるときだ。片や地方議員は地域振興を通じて、住民の暮らしを守り、また地方行政の健全性を監視する役目を負う。逆に国民や地域住民は、選ばれた議員が国政の場や地方議会の場でそれぞれの付託に応える活躍をしているか、チェックする責務がある。民主主義の成熟度は、その国の民度で分かるとさえ言われる。

 壱岐市でも四月に県議会議員選挙が行われた。特に地方選挙ではシコリも残りがちだ。だが、いつまでも選挙結果に拘泥している場合でもあるまい。選ばれた人は任期四年間の議席を得たとしても、安住は許されない。長崎県に、地元壱岐市に、今何が求められているか、課題を直視し、行動で示してほしい。

 壱岐市は市制四年目に入っている。島の活性化は急務であろう。だが全国の地方自治体の例に漏れず、復活の道のりは簡単ではあるまい。壱岐市の街づくりを議員も住民も地に足をつけて見定め、将来展望を描いてもらいたいと思う。

 来年には行われる壱岐市長選や市議会議員選挙に立候補の決意を固めつつある人もあろう。これら首長や議員を目指す人たちは、地域の伝統、文化を守りながら地方自治の原点を見詰め、市民とともに島の難局を乗り切る高邁な志と気概を涵養してほしいと願う。また国会議員は今こそ、都市部や地方における日本の現状と国際情勢を視野に入れて、平和で豊かな「品格ある国家」の建設に向け志を磨いてほしいものである。(完)※ジャーナリスト・東京雪州会副会長兼幹事長 
                           壱岐日報 平成19年(2007年)5月21日(月)