「日の丸・君が代」にみる戦後・・・ 日本文化会議専務理事鈴木重信昭和49年8月17日掲載


抜け落ちた「国家意識」

 二十九年目の終戦記念日を迎えて、考えたことは日本人はこの敗戦によって一体何を失ったかということである。未曾有の経済的繁栄や、目ざましい社会的発展を見ていると、むしろ敗戦によって得たものの方が大きく、失われたものはそれが何であるかさえも忘れられがちなのではないか。

 だが、戦後日本人が失ったままいまだに帰ってこないものは少なくない。その中でも一番大きなものは日本人の国家感覚ではないかと私は思う。なるほど主権在民だけあって、国民の基本的権利についての憲法論は盛んではあるが、どういうものか、国家意識がすっぼりそこから抜け落ちてしまっている。およそ国家なき国民というのは形容矛盾でしかないのだが、それが戦後の日本人の実態であった。

 国家意識というものは抽象的な法律論によって養われるものではない。適切な国語教育と歴史教育がそのために大きな役割を果たすことは勿論ではあるが、最も自然に最も端的に子供が国家を実感するようになるのはどこの国においても国旗と国歌によってである。自由主義諸国であれ、共産圏であれ、およそ諸外国の教育を視察した人たちは必ずこの事実を目撃したであろう。学校や公共の場所だけではなく、中には劇場や映画館でも終了時に国旗が映写され、国歌が奏せられる国もある。いずれにしても国旗や国歌が押しつけではなく、国民の日常生活の中にとけこみ、その一部分になり切っているのだ。このような環境の中で
成長する子供たちにとってもはや国家は抽蒙的な観念である筈はないであろう。

占領政策が起因にあらず
 奇妙なことに日本では戦後三十年を経た今日でも、祝日に国旗をたてる家庭はむしろ珍しい。学校では入学式や卒業式など年に数回の学校行事に日の丸をかかげ、君が代を斉唱するに過ぎないのが実情である。だが全国的にはこの限られた機会にさえも国旗と国歌とが教師の組合によって阻止されている学校が少なくはない。中には日の丸と君が代をめぐる父母と教師の対立の板挟みになって自殺をした校長もでるという始末である。その原因はどこにあるのか。

 敗戦後、占領軍から国旗、国歌についての禁止令が出されたのは当然である。だが、マッカーサー司令官は国旗に関しては意外に早く掲揚を許可している。昭和二十二年には皇居、国会議事堂、最高裁、首相官邸に、翌二十三年には国民祝日に一般国民が国旗をかかげることを許可した。さらに二十五年には文部省から各学校での国旗掲揚と国歌斉唱が望ましいという通達が出される。従って占領下の僅か数年の中断によって、国旗国歌嫌悪症が起きたとは到底考えられない。

☆マルクス主義での固定化
 原因はむしろ日本人の内面にあった。それは国家の象徴としての国旗、国歌への無理解、さらには国家経験の幼稚さに起因している。国旗にしろ国歌にしろ、それは国家の統合の蒙徴として、その国の歴史と理想を表現したものである。したがってアメリカ人が星条旗を仰ぎ、国歌「ザ・スター・スパングルド・バナー」を歌い、あるいはまたフランス人が三色旗をかかげ、「ラ・マルセイエーズ」を唱和する時、彼等はその国の歴史へ立ち還ると同時に、そこから未来への理想を汲みとるのだ。国旗は婦人服のファッションではなく、国歌は流行歌ではない。現にフランスの国家自体は数度戦争に敗れ、政体もまた幾変遷したが、国旗と国歌は制定以来、一貫して変らない。ここにこそ国旗と国歌の象徴としての意味があり、その根底にはフランス人の強靭な国家意識が流れている。

 わが日の丸も君が代もその性格において全く例外ではない。日の丸は遠く武家時代から対外的に日本の旗印であったし、君が代は十世紀の古今和歌集ないしは和漢朗詠集に出ている「読人しらず」の古歌で、後に神楽歌、里謡、地唄にまでなって広く庶民に親しまれ、いずれも明治になって国旗あるいは国歌に制定された。その国家の象徴としての歴史性と理想性とにおいて、少しも外国のものに遜色はない。にもかかわらず、敗戦と共に忽ち動揺したのはなぜか。

 日本という島国は長い間、血縁、言語、文化において単一であるという、いわば国家の前提条件に余りにも恵まれた一種の自然国家であった。したがって日本人は明治以降も、欧米の諸国のように不断の統一と持続の努力によってはじめて形成される近代国家としての経験において、極めて未熟で幼稚であった。無理に虚勢をはっだ国家意識がたった一度の敗戦体験で急転直下、国家不信ないし国家嫌悪に変じたのも無理からぬ経緯であつた。むしろ問題はこの一種の敗戦後遺症をマルクス・レーニン主義の国家消滅論によって擬装し、あたかも最も進歩的理論であるかの如くに固定化してんまった点にある。

☆未熟な憲法違反の主張
 さて多年にわたって、国旗・国歌に反対してきた日教組もその法制化を打ち出した政府の強硬姿勢と、国民一般の批判からも、選挙戦に不利と見たのか、七月二日槙枝委員長は遊説先の山梨で、「君が代反対」 「日の丸自由」という日教組の正式見解を発表した。君が代は歴史的に国歌として歌われてきたが、歌詞は天皇のためのもので、憲法違反である。日の丸は軍国主義のしるしではあったが、日本のしるしとして内外に通用してきたことも否定できない。また戦争を知らぬ若い人たちのイメージは必ずしも軍国主義につながらないという理由でようやく解禁になった次第である。

 ともかく半歩前進したとはいえ、この見解には未熟さと生硬さがぬぐい切れていない。君が代は憲法違反であるという、その主張こそ憲法第一条の「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」であるとの精神に逆に違反するものではないのか。さらに世界で最も古く、最も有名な英国国歌の「ロング・ツー・レーン・オーヴァー・ア
ス、ゴッド・セーブ・ザ・クイン」 (とこしえに我らをしろしめせ、神よ守れ女王を)を一体どのように批判するの
であろう。歌のこころは君が代と同じく、象徴としての女王の永遠を祈るものではないか。 国家を観念や権力の体系としてではなく、真に国民の血の通う統合体として実感せしめるものこそ国旗と国歌である。国民はそこに共同の歴史と理想と誇りを分ちあう。失われた国家はそこか蘇るであろう。(すずき しげのぶ)

情報源:産経新聞「正論」欄の35周年を記念し、当時掲載された珠玉の論稿を再録します。から(H20.9.21)
【視点】昭和49年3月の参院予算委員会で、当時の田中角栄首相は「国旗、国歌を法制化する時機がきた」と答弁し、革新団体が一斉に反発した。日教組は同年7月、法制化に反対し、特に、君が代の歌詞は天皇のためのもので憲法違反だとする見解を発表した。
 鈴木重信氏は、その主張こそ、天皇を日本国の象徴と規定した憲法第−条の精神に反するとして、日教組を批判した。鈴木氏は、国旗と国歌は「その国の歴史と理想を表現したもの」だとし、それに誇りを持つことによる国家意識の回復を訴えた。それから25年後の平成11年、国旗国歌法が制定されたが、日教組はいまなお、当時の見解を変えていない。(石)