昭和正論座【産経新聞H21('09)2.1】 独善的な無防備平和論・・・・防衛大学校長猪木正道昭和50年2月18日掲載 ソ連軍拡を警戒する中国 毛沢東主席や周恩来首相が、日本や西ヨーロッパ諸国からの来訪者に向って、防衛力の整備やアメリカ合衆国との同盟関係の維持強化を力説したという話は、両三年来しばしば伝えられている。中ソ両国の対立が論争から紛争へ、紛争から局地的な領事衝突にまでエスカレートした史をふりかえると、中国の首脳が日本とEC諸国との防衛力に深い関心を持ち、日米安全保障条約と北大西洋条約との存続を求めるのは当然といえよう。 それにしても、ソ連はなぜその強大な軍事力をさらに一層増強しようとするのだろうか? 米国のシュレジンジャー国防長官が最近指摘しているように、ソ連は一連の新型ミサイルの展開をすでにはじめており、MIRV(多核弾頭個別誘導)化された大陸間弾道弾の配備が完了すれば、米国の核抑止力は、重大な脅威を受けるといわれる。そこでアメリカも、トライデントやBI等の開発と展開とを余儀なくされるわけで、ウラジオストック協定にもかかわらず、米ソ両国間の核軍備競争は、ますます激化するだろう。戦略兵器制限交渉の頭文字をとったSALT−”塩″−をもじって口の悪い人々は、塩(Sall)の実態は、砂糖(Sugar)だとさえいっている。"戦略的無制限軍備競争″という英語の頭文字をならべるとSUGARとなるからだ。これはもちろん無意味な言葉の遊戯だけれども、なぜ超大国間の軍備拡充競争がとめどもなく続くのかという問題は、あらためて考察されなければなるまい。 受難の歴史が"膨張主義″に… わが国では、軍拡競争ばかりでなく、軍備そのものをせせら笑う意見が根強く唱えられている。国力に不相応なほどの軍備を持ったにもかかわらずーあるいは持ったからこそー第二次世界大戦で袋たたきにあい、完敗した日本国民の中に防衛力アレルギーが存するのは、むしろ当然といえよう。しかし日本国は空想の世界に位置しているのではなく、国際社会の一員としての権利を有し、義務を負っているのだから、まわりの国々の立場に対する理解を失ってはならない。かつて”八紘」宇”などという神がかりのスローガンをふりかざして隣邦に多大の迷惑をかけた日本が、ふたたび独善的な理想の追求によって、国際社会から爪はじきされては困るのである。 中国の指導者たちが、ロシア・ソ連の膨張主義″を恐れるのは、歴史的に見ても十分な根拠がある。それでは、ロシア・ソ連だけが悪玉かというと、全くそうではない。ロシアが世界史の舞台に登場してから今日までの歴史は、彼等の立場から見れば、まわりの国々から脅威を受け続け た受難の歴史なのである。 ロシアの心臓部がモスクワからキエフまでにあるとすれば、この地域は、建国以来ほとんど間断なく、外からの脅威にさらされてきた。その中でも十三世紀にロシアの全土を征服して、長くこれを支配したモーコ人の来襲はもっとも有名である。ようやくモーコ人の支配から脱したと思ったら、今度は西の方のポーラ ンドによって脅されている。十九世紀のはじめにはナポレオンが攻め込んできて、モスクワまで占領され、辛うじて 焦土作戦によって窮地を脱することができた。二十世紀に入ると、ドイツ軍が二度も侵入し、ロシア国民は人的に も、物的にも手ひどい打撃を受けている。 恐怖が恐怖を生む連鎖 このようなロシア国民の歴史的体験を多少とも理解するならば、今日のソ連が軍備の充実を国家の最優先目標としているのも無理はないといわなければなるまい。ところが外からの侵略に対するロシア人の警戒心は、当然まわりの国々の恐怖感を生むことになる。米国は自国のICBMがソ連の強大な新型ミサイルによって一挙に無力化されることを恐れ、中国はソ連が予防戦争を企図するのではないかと心配し、国内にソ連と気脈を通じるものが現れることを懸念する。 こうして警戒が警戒を呼び、恐怖が恐怖を生む連鎖反応は、国際社会の現状では避け難い。ソ連国民は東方や西方からの侵略の歴史を忘れないが、まわりの国々の立場から見れば、ロシア・ソ連は一貫して膨張政策をとってきたように見えるからである。ハーバード大学のパイプス教授によれば、ロシア・ソ連は自国の安全を脅威する隣国に対しては、ねばり強い努力によって、これを窮極的には分割し、その一部を併合して、徹底的に弱体化することを狙う傾向があるといわれる。 たしかにロシア・ソ連の安全を脅威したものは、モーコ帝国から、ポーランドをへてドイツにいたるまで、長年月のうちに分割され、その一部をロシアに併合され、弱体化されている。同じ歴史的事実でも、ロシアから見れば侵略に対する防御と反撃であるのに対して、まわりの国々から眺めれば、ロシアの侵略であり、膨張である。 理想論通じない国際社会 国際社会の難しさは、まさに右の点に存するといってよかろう。一方の立場だけに固執していては、国際関係は理解できないし、国際平和を守ることも不可能だ。互いに相手方の立場からむのを見る努力を重ねて、警戒心と恐怖感との連鎖反応を制御する以外に平和の途は存しないのである。 この意味で、主観的にはどれほど高い理想から出発し、いかに善意に貴かれていても、国際社会の常識に反する独善ほど世界の平和にとって有害なものはない。例えば、わが国だけは防衛力を持つべきでないなどという主張は、まことに独善的な思い上りであって、日本国民ばかりでなく、まわりの国々が例外なしにひどい迷惑を受けることになる。 三百年以上も前にホップスが強調しているように、人間の社会では残念ながら恐怖心″がもっとも根本的な行動の動機なのである。日本が最小限度の防衛力を備え、米国と安全保障条約を結んでいればこそ、まわりの国々は一応安心しているのだ。毛主席や周首相が日本の防衛力と米国との結びつきに理解を示しているのは、国際社会の常識の現れといってよい。 他の分野ではきわめて優秀な能力を発揮している日本国民が、国力相応の防衛力を備えるという点では、しばしば非常識な独善主義におちいるのはまことに残念である。戦前には過大な軍事力によって隣国を脅威したかと思うと、戦後には、最小限の防衛力に対してさえアレルギー症状を示すというのでは、国際社会の一員としての資格さえ疑われるだろう。 (いのきまさみち) 産経新聞「正論」欄の35周年を記念し、当時掲載された珠玉の論稿を再録しています。
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