オピニオン 交洵社フォーラム (産経新聞H21.6.29)    
漢字と文語は教養の源                        塩原経央
さる14日、東京・大手町のサンケイプラザホールで、(財)交洵社のオープンフォーラム「美しい日本語」が開かれた。交洵社とは明治13年、福沢諭吉が主唱し、「知識を交換し世務を諮洵する」ために設立されたわが国最古の社交クラブ。今日では公益法人として公開講座等の活動も繰り広げている。
「子供達に美しい日本語を伝へる会」主宰の土屋秀宇氏の基調講演の後、交洵社理事長の鳥居泰彦氏をコーディネーターにパネルディスカッションが行われた。パネリストは「国語を考える国会議員懇談会」会長。平沼越夫、石井事務所代表。石井公一郎、上智大学名誉教授・渡部昇一、「文語の苑」代表幹事。愛甲次郎の各氏である。

平沼氏は教育特区として「日本語」という授業を組み込んでいる世田谷区立船橋小の2年生の授業を視察した際、孟浩然の
「春暁」を嬉々として暗誦してしまう児童の様子に心底感嘆したと述べた。幼児は暗誦の天才であることは、筆者も石井式漢字教育実践園の取材で何度も確認し、これまで当欄にも書いてきた。諺。四字熟語、俳旬"短歌、名文・名詩、中でも漢詩・漢文は得意中の得意である。それはなぜか。渡部氏の「漢文読み下しは初めから調子よく読めるように作られているからだ」という分析がその謎解きとなるかもしれない。渡部氏は「美しい日本語には2系統がある。一つは源氏物語に代表される大和言葉で、もう一つは平家物語のような漢文読み下し調の文章だ。前者も訓読みの形で漢字が混融している。

漢字の継承者は今の中国ではなく、むしろ日本だ。漢和辞典は決して中日辞典ではなく、小型辞典の漢字語彙はほとんど日本語語彙だ」と喝破した。
石井氏はノーベル賞を受賞した人々の例を挙げ、高い創造力は論理や実験の延長線上にはなく、直観によるとし、直観力を養うのは知の基盤である教養の深さであり、それは幼少年期の読書量が培うと指摘した。漢字と文語は教養の貴重な水源である。石井氏は漢文を含む文語文を徹底的に読ませるとことで「戦後失われた一般教養の再生につなげたいLと述べた。

愛甲氏は「わが国の文語はラテン語、漢文、古典アラビア語に並ぶ4大文章語の一つだが、その文語が絶滅の危機にある。そこで、若い世代に文語継承の運動をしている」と報告した。思えば今日の国語力の衰微は、昭和22年の学習指導要領に中学の国語教育は古典の教育から解放されなくてはならないと書いた呆れた教育施策から少しずつ蝕まれた末の現象だ。

教育基本法の改正を基に改定された指導要領(平成23年度実施)で「伝統的な言語文化の指導」「が項目立てされ、5,6年で古文・漢文、近代文語文の導入が明記された。一歩前進であるが、幼少年期の脳の可塑性を考えれば、むしろー、2年生の方が適当であろう。しかし、大きなものを動かそうとするとき、そうそう簡単にはいかないことも事実だ。平沼氏は教育特区視察の際、「なぜこんないいことが全国に広がらないのか」と教育長に尋ねたそうだ。すると「日本語」の授業をするために先生が課外で200時間の勉強をした旨の!説明があったとの由。そういえば、先生たちも総じて文語から疎外された世代なんだなと、妙な感慨を抱いたものだった。



正論 産経新聞平成21年(2009年)6月29日月曜日
地方版「漢字審議会」のすすめ     社会学者   加藤、秀俊
常用表に無視された地名
「地方にできることは地方で」…という政府の大方針に賛同してひとつ、ご提案申しあげる。端的にいう。全国、すべての自治体に独自の「漢字審議会」を設置し、それぞれ独自の「常用漢字表」をおつくりになったらいかが?というのはほかでもない、日本の都道府県、市町村の地名を表記するいくつもの漢字が中央政府の認定する「常用漢字表」に無視されてきたからである。信じられないことだが、たとえぱ埼玉県の「埼」という字が常用漢字になかった。大阪の「阪」もなかった。岡山、福岡の「岡」もなかった。山梨の「梨」もなかったし奈良の「奈」もなかった。これらの漢字のおおくは昨年からことしにかけて「新常用漢字」として追加されたようだが、たとえば三鷹市の「鷹」はいまだに漢字表にはいっていない。まことにバカげたはなしである。じぷんが居住している都道府県、市町村の表記方法が国によって市民権をあたえられていない、などというのは珍妙なことではないか。

これら固有の地名の漢字表記を文化審議会(旧国語審議会)によって抹殺された不幸な自治体はいったいどうなさっているのか。わたしはいくつかの県庁、市役所などに電話をかけ、教育委員会に問い合わせてみた。それぞれにたいへんなご苦労をなさってきたことがわかった。なにしろ教育漢字はもとより常用漢字にはいっていないのだから、「学習指導要領」によるかぎり、じぷんたちの居住地の漢字表記を学校で教える機会はない。

なぜ障「害」者になるのか
もちろん、常識というものがあるから、みなさん、じぷんの名前とおなじように住所もちゃんと漢字でおぼえましょうね、といった指導をすることはできるが杓子定規でいえぱ岡山県や埼玉県の学校の先生が「岡」や「埼」という漢字を教室で教える義務なんかなかったのである。こどもたちが「おか山県」「さい玉県」と「まぜ書き」をしても、それを正す権利も責任もない。正規の学校教育と「常用漢字」はどうやら相性がよくないらしいのである。だから、中央政府の不毛な議論なんかは相手にせず、いっそ都道府県、市町村の教育委員会が「ご当地常用漢字」で自由に決定したらいいのではないか、というのがわたしの提案なのである。地名だけではない。ほかにもほうぽうの漢字審議会にやっていただきたいことがある。たとえぱこんな実例がある。

社会福祉のボランティア活動をなさっているかたから、からだの不自由なひとびとを「障碍者」と表記したいのだが、どうしても市役所が「障害者」という文字しか受け付けてくれない、というおはなしをうかがったことがある。「碍」と「害」ではまったく漢字の意味がちがう。なぜ「碍」を「害」にしたのか、といえば「碍」が常用漢字にはいっていないからだ。音読みがおなじ「ショウガイ」だから、というので宛て字にしたのだろう。それはあたかも「読書」を「毒書」と書くようなもので(ともに「ドクショ」と発音するが「読」と「毒」では漢字の意味がまったくちがう。

その「障碍」という漢字を厚生労働省が採用しなかったのは「碍」が常用漢字表になかったというだけの単純な理由による。なにかといえば省庁どうし知らん顔のクセに厚労省が漢字について文化庁に気兼ねするとは、まあなんと姑息で臆病な。そんなこと気にしないでいいのです。「有害」「害虫」「害毒」など、わるい意味しかない漢字を身体の不自由なひとの形容につかうのは失礼千万。やっぱりここは「さまたげ」という意味の「碍」をつかったほうがいい。体操の「障碍物競走」を「障害物競走」に書き換えるなどというのも正気の沙汰ではない。跳び箱や平均台にはなにか「害」があるんですか?国が頼りにならないからその厚労省に忠実だから市役所も「障碍」という文字を受け付けない。それじゃ「障がい」と「まぜ書き」にしましょう、などと奇妙な妥協案をだす。しかし、もしもその自治体の漢字審議会がわが県、わが市では「碍」を常用漢字にいれましょう、と決定すればこんな問題はすぐに解決する。担当者も市民も安心する。

国語を自治体が勝手にいじくりまわすとは怪しからん、などとおっしゃるな。全国あちこちを旅してみると、都道府県、あるいは市町村が指定した有形、無形のみごとな文化財にめぐりあうことがしばしぱである。あれと理屈はおなじ。伝統文化を守り、あらたな文化を創造するのは国だけのしごとではない。いや国以上に地方こそが文化についておおきな役割をになっているのである。言語だって例外ではない。国がタヨリにならなければ自治体が自主的に改革したらそれでよろしい。道路、河川などとちがって言語行政にはあんまりおカネもかかるまい。自治体首長のどなたか、第一号として名乗りをあげてくださいませんか?(かとうひでとし)2009,6,29