■番組概要
(アメリ力青年・日本への旅,!キッド君の一の宮巡詣記)
 江戸幕府が鎖国令をだした寛永12年(1635)に、肥前国平戸に生まれた橘三喜は、天草の乱が起った時代に海をへだてた中国、オランダ:を窓□にして海外文化の空気にふれる環境で育った。海の男たちは、気象・自然の中に神を信じていた。異国の文化の中に日本の原点である神道に関心を寄せるようになり、延喜式にある「大祓詞」と、諸国一の宮のすべてを巡拝しょうと決意した。平戸から延宝3年(1675)7月から元禄lO年(1697)9月まで、足掛け23年かけて'その志を遂げた。その紀行記録が『一宮巡詣記』として今日に伝っている。

 
話しがかわるが、アメリ力人のダスティン・キッド青年が、神の国といわれた出雲の島根大学に留学し、古い歴史をもつている神社に興味をもった。島根県の教育委員会と英語助手の契約ができ、学校の休暇を利用して諸国一の宮に、御朱印帳をもって巡拝するようになった。松江にはラフカディオ・ハ一ン(小泉八雲)のような先輩がいる。ハ一ンは日本文化の根底にある霊的な部分、さらに国家、民族の垣根を超えた文化の本質に理解が深まったように、彼は故郷オレ:ゴンの目然の中に育ち、父が森林の仕事をしていたとき、巨木に神を感じたという話が子供のときに心に残ったという。古い神社の神域に入ると、「すごく清浄なる自然を感じる」という.、彼は日本人のように神社に対する概念はない。一の宮巡拝は、体に感じる神々との出合いである。

日本全国に散らばる清浄なる神域全国に散らばる清浄なる神域を、体で確かめ感得しようとするものである。一の宮を通して日本人では見えなかったものを日本人以上に発見してくれるのではなかろうか。 ここに橘二喜が歩いた一の宮の道を、アメリ力人のダスティン・キッド青年とともに、時の流れのなかにも残存している風景や道を探すことにより、別な角度から切り込んだ日本再発見になる。地元にある一の宮が、日本全国の中に位置づいていることを認識しているところは少ない。その点、外国人の目から見るものは意表をつくものがある。地元の一の宮はもとより、教委・郷土史家・観光行政の総協力のもとに、日本再発見・日本発掘につながり、今をおいてないチャンスであり、急務である。


 
ダスティン・キッド青年の諸国一の宮巡拝は、「アメリ力人に、日本の古代からつづく諸国一の宮、古神道を伝えたい」という願望がある。それは神社の由緒書きを英語に翻訳しただけでは本当のことは伝わらない。感得したことを自分の言葉で伝えないと理解できない。その意味で、彼の疑問、彼の質問をそのまま表現することが、本当の日本紹介として、アメリ力人に理解され、好奇心の強いアメリ力人の一の宮巡拝が始るキッカケになるのではなかろう。国内版だけでなく、国外版をも意識して制作を考えたい。

キッド君による橘三喜の一の宮めぐりの道をたずねる(7ブロックに分類)
1,南九州の旅 延宝3年(1675)
2.壱岐・対馬、北九州の旅 延宝4年(1676)
3.房総をめぐる旅 延宝5年(167フ)
4.陸奥と信越の旅 延宝6年(1678)
5.富士山を巡る旅 貞享4年(1687)
6.江戸から平戸への旅 元禄9年(1696)
7最後の平戸から江戸の旅 元禄10年(1697)


■制作資料
1。江戸時代『一宮巡詣記』を残した橘三喜
 日本諸国の一の宮を歩いた男がいた。橘≡喜は寛永12年(1635)肥前国平戸に生まれた。海外交易の門戸として開けた平戸は、その主力は長崎に移ったといえ鎖国のなかでオランダを通じて世界に目を向けられていた。藩主の命により神楽の研究をし平戸神楽を残した。16歳のときに平戸藩主松浦鎮信に見いだされ京都・江戸に遊学の機会を与えられ、吉田神道を学んだ。 全国の一の宮のすべての巡拝を決意し、延宝3年(1675)7月から元禄10年(1697)9月まで足掛け23年の歳月を費やし人紀行記録『一宮巡詣記』を残し、長年の志をとげることができた。元禄4年(1691)には、最も古い色刷りの「元禄地図」が売出され、絵図の案内として七道の日本国一宮が紹介されている。「一の宮めぐり」は江戸時代前期にはじまり、廻国巡礼ということで多くの人が一の宮を巡拝した。横浜市港北区日吉本町にある金蔵寺に、安永9年(1780)2月吉日の刻印のある記念塔が残されて、そこに諸国一の宮祭神名が記されている。一の宮巡りは江戸時代前期、橘.三喜をはじめ多くの庶民のなかに広がっていったのである。

南九州の旅 延宝3年(1675)

 7月肥前国一の宮川上淀姫神社・干葉八幡宮、8月3日筑後国一の宮高良大社、熊本、8月15日肥後国一の宮阿蘇神社、延岡、9円18日日向国一の宮都農神社、霧島、9月28日大隈国一の宮鹿児島神宮、10月7日薩摩国一の宮枚聞神社、10月13日薩摩国一の宮新田神社、長崎、平戸。

壱岐・対馬、北九州の旅延宝4年(1676)

 1月16日平戸、壱岐、2月21日対馬国一の宮海神神社、3月4日壱岐国一の宮天手長男神社、平戸。平戸、IO月17日豊後国一の宮西寒多神社、11月2日筑前国一の宮筥崎宮・住吉神社、11月13日豊後国一の宮宇佐神宮。

房総をめぐる旅 延宝5年(1677)

11月13日江戸、11月16日安房国一の宮洲崎神社・安房神社、11月23日上総国一の宮玉前神社、12月1日常陸国一の宮鹿島神宮、12月3日下総国一の宮香取神宮、江戸。

陸奥と信越の旅延宝6年(1678)

5月1日神社下野国一の宮二荒山神社・日光二荒山神社、5月IO日陸奥国一の宮八槻都都占別神社、馬場都都古別神社・石都都占和気神社、5月16日仙台、6月10日陸奥国一の宮志波彦神社・塩竃神社、6月26日山形、6月27日立石寺、羽黒山・月山、7月1日鶴岡、7月4日出羽国一の宮鳥海山大物忌神社、7月12円新潟、7月13日越後国一の宮弥彦神社、7月14日出雲崎、7月15日小木、相川、9月18日佐渡国一の宮度津神社、10月24日高田、10月25日善光寺、高崎、11月1日武蔵国一の宮氷川神社、江戸。

富士山を巡る旅 貞享4年(1687)

 4月5日江戸、甲斐国一の宮浅間神社、甲府、富士川を下り興津、駿河国一の宮富士山本宮浅間大社、富士山登頂、相模国一の宮寒川神社。鎌倉鶴岡八幡宮、金沢ハ景、7月8日江戸。

江戸から平戸への旅元禄9年(1696)

 6月11日江戸、6月15日上野国一の宮胃前神社、碓井峠と和円峠、社6月22日信濃国一の宮諏訪大社上社・下社、塩尻・松本・猿ヶ馬場峠、長野善光寺、戸隠三社、野尻湖、高田、能牛・市振、7月2日糸魚川、天津神社、親不知・子不知、7月6日立山に登山、越中国一の宮雄山峰本社・祈願殿・前立社壇、富山、井波、越中国一の宮高瀬神社、7月9日高岡の一宮気多神社、7月13日能登国一の宮気多神社、金尺加賀国一の宮白山比盗_社、8月10日越前国一の宮気比神宮、8月11日若狭国一の宮若狭彦神社、若狭姫神社、8月16日丹後一の宮籠神社、8円22日国但馬国一の宮粟鹿神社、出石神社、湯村、8月26日因幡国一の宮宇倍神社、8月27日伯吾国一の宮倭文神社、米子、8月29日松江、9月14…23日隠岐国一の宮水若酢神社・由良比女神社、10月4日出雲国一の宮出雲大社・熊野大社、10月17日石見国一の宮物部神社、中国山地を越え、11月2日三次、11月5日広島、11月8日安芸国一の宮厳島神社、岩国、11月2旧周防国一の宮玉祖神社、下関、11月24日長門国一の宮住吉神社、12月17日平戸。

最後の平戸から江戸の旅元禄10年(1697)

 3月12日平戸、船旅・瀬戸内海、3月22日靹の浦に上陸、3月25日備後国一の宮吉備津神社、船で4月2日伊予国一の宮大山祇神社、今治、松山、仁淀、4月10日土佐国一の宮土佐神社、甲浦、徳島、4月22日阿波国の宮大麻比古神社、4月27日淡路国一の宮伊丼諾神社、讃岐国一の宮田村神社、5月8日備中国一の宮吉備津神社、備前国一の宮吉備津彦神社・石上布都魂神社、5月24日美作国一の宮中山神社、5月2フ日播磨国一の宮伊和神社、大坂、6月11日河内国の宮枚岡神社、6月13日紀伊国一の宮口前神宮、6月12日和泉国一の宮大鳥神社、6月20日大和国一の宮大神神社、6月20日伊賀国一の宮敢国神社、7月23日志摩国一の宮伊雑宮・伊射波神社、7月26日伊勢国一の宮椿大神朴.7月28日近江国一の宮建部大社、山城国一の宮賀茂別雷神社・賀茂御祖神社、8月7日丹波国一の宮出雲大神宮、8月24日美濃国一の宮南宮大社、8月29日飛騨国一の宮水無神社、9月4日尾根国一の宮真清田神社一大神神社、9月6日三河国一の宮砥鹿神社、9月9日遠江国一の宮小国神社、9目12日伊豆国一の宮三嶋大社、9月15日江戸。

三喜世を去る

元禄16年(1703)3月7日、享年69歳、吉田家からは一樹霊神の言盆在受けた。武蔵国一の宮氷川女体神社の近くの武笠家の墓所に墓がある。武笠家は代々武蔵国一の宮氷川神社の宮司を務めた。武笠丹羽は三喜の門弟の関係で墓所が決まったものと思われる。武蔵国一の宮は大宮の氷川神社と氷川女体神社と、これらの中間の中山神社と三社で一体を成している。死後13年を経た正徳5年(1715)に妻が立て直したものが現在墓石として残っている。

2.平成の「一の宮めぐり」

 平成3年7月、一宮を地名とする行政・商工会議所び「一宮サミット」を開催した。これに刺激されてか一の宮の存在を知らせるべく全国の一の宮会(全国の一の宮の神社の組織)が結成した。平成10年11月22日には、『全国一の宮御朱印帳」を作成し、「一の宮めぐり」の仕掛けがつくられた。その日から私は、伊勢国一の宮椿大神社で御朱印をいただき巡拝の旅をはじめ、同11年12月17巳琉球国波上宮で完拝した。ーの宮の参拝者に「一の宮めぐり」を知らすべく、翌年7月1日には、一の宮巡拝会(一の宮を巡拝する個入の組織)が結成され,『巡拝会報』第1号を一の宮社頭で参拝者に配付して啓蒙活動を行った。その結果、御朱印帳で巡拝する人が5000人を超え、巡拝会入会が500人になった。巡拝する人は、一の宮をめぐること1こより、日本中を旅する目標ができることや、お宮さんに行くのであるから健康にもよく、中高年層の生きる目的を得たという人も多い。世界中をバイクで駈けた賀曽利隆さんが旧国一宮をめぐり、「日本一周バイク旅4万キロ」(昭文社)をだしてから、バイクで一宮巡拝を走る若い人が出るようになった。ーの宮に関する本も各出版社から刊行されるようになり、いままでと違った観光資源の役割を「一宮めぐり」が担うようになっている。平成12年秋、近畿日本ツーリスト「心の旅」で、「一宮めぐり」を企画平成14年の秋に一巡し、また募集、JTBも全国一の宮参拝シリーズを募集し、旅行会社の企画募集の対象に「一宮めぐり」をするまでになった。

3.一の宮巡拝会の初の宮島集会

平成14年9月3・4日、全国一の宮会広島総会一全国一の宮巡拝会宮島世話人`会員の集いが開催された.その情報を広島県東京情報センターを通じて、広島県に文書で提出し、宮島観光協会と9月2日に打合せをした。目的とするところは、一の宮のことを知り、各地の旧国に一の宮が存在することを認識してもらって、「一の宮めぐり」を観光資源として考えてもらいたいことであ。4日には、国宝の高舞白で、会員の倭舞奉納一の宮行脚を志す倭一二三さんや藤間勘穂紫乃さんが神楽舞「越天楽」を奉納した。数日後、山陰プロック世話入のアメリ力人キッドさんを中心に中国新聞に大きく報道された。ここに全国一の宮と巡拝者が「一の宮めぐり」という目的に向って確実に歩き始めたのである。安芸国一の宮厳島神社の集まりは、見えない力に引き寄せられたものと思われる。


4一の宮・巡拝会・観光関係者

 全国に一の宮があることを観光関係者は認識し、それぞれの地の一の宮を観光パンフレットや観光地図で紹介し、巡拝者がどのような気持ちで巡拝しているかを理解し、「一の宮めぐり」をさかんに新たなる観光資源とすることが大事なことである。21世紀は個々の人の意志を尊重する時代である。かつての経済成長期には、団体旅行の恩恵を受けたが、不況下、観光地はこの逆風をまともに受けている.「一の宮めぐり」は自分の意志で、目分の都合に合わせてする、また、生涯をかけて、御朱印帳を完成させようという人もいるり巡拝者は「一の宮めぐり」をしなから全国を旅し、改めて国土を体で感じようとしている。

 創建以来、空気と水と森林を伝えてきた一の宮の境内に入ると、体ごと清浄になり、全国106社をめぐっていると個々の願いより、巡拝できる有難さが、見えない力への感謝の気持ちに変わる.これは巡拝を重ねた入だけがわかる気持ちである。この人々の動きを察知して、新しい流れが始ろうとしている。例えば、島根県は出雲国一の宮出雲大社は、観光で参拝する人は多し。しかし、「一の宮めぐり」をしている人は、熊野大社や石見国一の宮物部神社、さらに隠岐国の宮水若酢神社'田良比女神社に参拝し、御朱印をいただく,そして日本全国にある一の宮を巡ることになる。観光から、一の宮のある府県や市町村が、それぞれの一の宮の存在を観光面から認識し、一の宮の観光面が取り上げられると、大きな流れとなり、一大観光資源としてクローズアップされる。

 国々の一の宮の社頭で『一の宮巡拝』会報を配って一の宮の啓蒙をしてきた。その中から目然と、巡拝する人の会、一の宮巡拝会ができ、「一の宮巡り」をする人のお世話や情報を提供するようになった。いま、諸国一の宮の社頭から参拝者に呼びかけて始まった「一の宮めぐり」も、『全国一の宮御朱印帳』を持った人が,5000人を越え、巡拝する人も、さらに新たな人を誘って、一の宮巡拝会員の加人者の数'を増してきた。はじめは観光のつもりで始めた人も、巡拝の目標に熱心になり、新しい旅を発見したようである。人も動くと、物も動き、金も動く、巡拝を完拝するには、1人100万円以上の出費となる。100万人一の宮巡拝の目標が動くと、10兆円の観光資源となり、江戸時代に社寺詣でのため門前町ができたように、社前町ができるのも夢ではなくなるほど、大きな影響をおよぼすものと思われる。


5.観光は個々の人の「光」

長年の不況か続くなか観光客も落込んで、どこの観光地も元気がない。なにか観光に活力を与える方法がないかと対策を考えるが、そうそう見つかるものではない。ここであらためて観光とは何かと、問いかけてみたい。観光とは「光」を観ると書く、古くから名所旧跡をめぐり物見遊山とよばれてきたが、空間に自らを「そこに投げ出す」行為が、「旅」であり、旅と旅行とは違う意昧があった。目然や古くから継承されてきたものに出会うと、時間`空間を超えた感動を、それぞれの「個」を感じるのである。われわれは学校から社会へと、集団で学び、集団で行動することに慣らされてきた。その集団のエネルギーが高度成長へ発展させたのである。フレッシュであるべき「旅」も、団体旅行が主になり、観光地も目然景観は別として均一化してしまった。やがてバルブの崩壊とともに不況がおとずれたが、海外旅行だけは、上昇気分であったが、これも同時多発テロで伸びが期待できなくなった。

 一方、先行きの不安に対して、心の旅を求める四国ハ十八霊場めぐりをはじめ、巡礼・巡拝の旅か、ますますさかんになり、それも個々の人が歩いて遍路するのが増えてきている。四国遍路みちの人が「お接待」という、お遍路さんに「ご苦労さま」という気持ぢが溢れ、お遍路さんもその入情に接し、真の観光を体で感じている。学校教育でも集団教育から「個」の教育へと、見直されようとしているとき、個々による精神世界の旅が求められようとしていることは、喜ばしい傾向がでてきたというべきである。


6.故郷の力は偉大なり

 故郷の存在が大きく見直されるようになった。北朝鮮の拉致で、目本に一時帰国した人たちも故郷を訪れ、故郷の自然や家族や友入と接するうちに、24年間という空白と、社会主義国の洗脳されたなかに、わずかに和やひな顔を見せるようになり、故郷の魅力を感じた。故郷の温かさ、目然、人情が生きていた。佐渡の実家に帰った曽我ひとみさんは、佐渡国一の宮度津神社に、妹の金了富美子さんの長男、甥にあたる3歳の大輔君と、七五三のお祝に和服姿でお参りした写真が報じられていたが、佐渡国一の宮であることは知らなかったようである。

 何か見えない、力によって故郷の最高の神霊が宿る場所に吸い寄せられたように、諸国一の宮巡りの波の流れが大きくなろうとしている.現実には、日々不愉快な出来事がつづいているが、最終的には日本人の個々が立派にならなければ変わらない。日本の原点である一の宮巡りは、その解決の道である。アメリ力入青年が一の宮巡拝会世話人になっているように、やがて外国人も一の宮巡りをするようになる。今年の新学期から学校の総合的学習が新しく始まり、児童・生徒が、日本の古いものを知ろうと神社を訪ねるようになった。何か見えないものが大きく変わろうとしていることを感じて貰いたい。


7.一の宮関係の出版物

 諸国一の宮日本精神世界の旅 人汀孝一郎著 移動教室出版事業局 1,143円税別

中世諸国一宮制の基礎研究 中世諸国一宮制の基礎研究会編 岩田書院 9,900円税別

私の一宮巡詣記 大林太良著 青土:社 3,400円税別

全国一宮祭礼記(諸国70余一宮祭を紹介) おうふう 4,800円視別

日本国一宮元禄図 元禄四年(1691)復刻版  1,300円税別

全国一の宮御朱印帳  全国一の宮会監修   頒布費 3,OOO円税別

一の宮ノォト  齋藤盛之著  思文閣出版   12月刊行予定価格未定

8.添付書類

中国新聞・山陰中央新報・日本海新聞記事コピー

「一の宮めぐり」と観光

全国一の宮鎮座地

一の宮巡拝会報」第14号