日本国憲法はこうして作られた。・・・・・風の男 白洲次郎か(青柳恵介著・新潮文庫 )

P112・・・・こと、天皇制もふっ飛ぶぞ」とどなりつけられた。二十万円は松嶋次官が了解を与えて、甲斐課長がバー・モウに渡したものであり、吉田はそれを知らなかった。そもそもその亡命は重光外相の時のことであった。

白洲次郎は「バー・モウ氏のいうような地下反抗運動などは全然無根のことだ。とにかく果たしてそういう運動があるかどうか、現地に人を派して調査させるから、しばらくまってもらいたい」と、ソープ准将に申し入れ、終戦連絡事務局の政治部長曾禰益(そねえき)が六日町に向かった。もとより地下組織などなく、CIDも事実無根のことと結論を出し、拘置された関係者も釈放され、バー・モウだけが所期の目的を達し、独立を果たしたビルマに帰国した。

後代の我々から見れば、いささか滑稽な印象すら受ける事件であるが、当時としては吉田外務大臣の責任問題にまで発展しかねなかった危うい事件であったという。

杉浦氏は当時を思い出し、北沢・甲斐両名が巣鴨に拘置され、苦境に陥った外務省を救ったのは白洲次郎だと言う。吉田外相、松嶋次官が司令部の質問を受けてから数日後、白洲から外務省に「明日捜索があるぞ」という連絡があり、バー・モウ関係文書の整理ができたという。

白洲は占領期間中、司令部のG2との連繋を常に重視したが、この時も外務省への捜索の情報をG2から入手したのであろう。翌日、外務省に司令部のジープが横づけにされ、外務省のバー・モウ関係の文書を調べるために資料が持ち去られた。その資料の中に、吉田茂から北沢直吉宛に出された手紙があり、それがバー・モウの自首を促す旨の内容のものであった。その手紙の存在によって、吉田は救われたのであろうと杉浦氏は言う。

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バー・モウ事件が一段落しても白洲次郎には休む暇はなかった。昭和二十年暮から二十一年にかけて日本政府に課せられた最大の問題が憲法の改正問題であったことは言うまでもない。近衛の憲法草案作成は挫折するし、またマッカーサーが幣原首相に指示した、いわゆる「民主化五要求」を受けて設置された「憲法問題調査委員会」の松本案が二月一日新聞に洩れ、その旧態依然としたプランを総司令部が無視することによって、実質的に頓挫する。

一方・マッカーサ一はその頃、おそらくは日本政府の視野に入っていない国際情勢の変化に直面していた。一つは、アメリカ本国から打電された「日本の統治体制の改革」(SWNCC1228)であり、もう一つは二月二十六日に予定されている極東委員会の発足である。

その二つに国際情勢の変化は端的に現れている。前者は「日本人が天皇制を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれを改革することを奨励支持しなければならない」という内容の日本改革の根本方針をうたったものであり、後者の極東委員会が発足し、天皇制の存続に反対するソ連やオーストラリアといった国々の意志を反映した決定が下されれば、マッカーサーもそれに拘束されざるを得なくなる。

天皇制は存続させようと心に決めていたマッカーサーにとってみれば、一日も早く憲法改正に彼自身がイニシアチブをとって着手せねばならない。かくして二月三日に、マッカーサー・ノートとして知られる三ケ条を公表し、二月十三日にGHQ作成の憲法草案が日本政府に手交された。非常に大雑把ではあるが、大略右のような経緯が戦後史の定説であろう。

昭和二十一年二月十三日午前十時、総司令部民政局長コートニー・ホイットニー准将は、ケイディス陸軍大佐、ラウエル陸軍中佐、ハッシー海軍中佐の三幕僚と共に、麻布市兵衛町の外務大臣官邸を訪れた。これを迎えた日本側のメンバーは、外務大臣吉田茂、憲法担当国務大臣松本丞治、通訳にあたる外務省の長谷川元吉、そして白洲次郎の四人であった。

ケイディス、ラウエル、ハッシーの三人がまとめた「一九四六年二月十二日、最高司令官に代り、外務大臣吉田茂氏に新しい日本国憲法草案を手交した際の出来事の記録」(『日本国憲法制定の過程-T原文と翻訳』高柳賢三他編著、有斐閣)に沿って部分的に引用しつつ、当日の会談の模様を要約してみよう。

《ホイットニー将軍は、向い側に座った日本側代表の顔にまともに日光が当るように、太陽を背にして坐った。下名等はホイットニー将軍と並んで坐り、同様に日本側と向い合った。ホイットニー将軍は、直ちに松本案についての一切の議論を封殺して、一語一語の重みを測るように、ゆっくりと次のように述べた。

「先日諸君が提出された憲法改正案は、自由と民王主義の文書として最高司令官が受諾するには全く不適当なものである。しかしながら、最高司令官は、過去の不正と専制から日本国民を守るような自由かつ開明的な憲法を日本国民が切望しているという事実に鑑み、ここに持参した文書を承認し、これを日本の情勢が要求している諸原理を体現した文書として諸君に手交するよう命じられた。この文書については後刻さらに説明するが、諸君がその内容を十分理解されるよう、ここで小官は幕僚とともに一時退席し、文書を自由に検討し、討論する機会を与えたいと思う」

ホイットニー将軍のこの声明に接して、日本側は明らかに愕然とした。殊に吉田茂氏の顔はショックと憂慮の表情を示していた。この一瞬一座の雰囲気は全く劇的緊張感に満たされた。次いでホイットニー将軍は下名等に対し、憲法草案を渡すように命じた。コピー番号六番が吉田氏に、七番が松本博士に、八番が長谷川氏に、九番から二十番までが一括して白洲氏に手渡された。白洲氏は全員に代って受領証に署名した。

十時十分、ホイットニー将軍と下名等は、ポーチを去り日光を浴びた庭に出た。そのとき米軍機が一機、家の上空をかすめて飛び去った。十五分ほどたってから、白洲氏がやって来た。そのときホイットニー将軍が静かな口調で白洲氏に語った。「われわれは戸外に出て、原子力エネルギーの暖を取っているところです」ー下略ー》(ここの引用部分は高柳賢三他編著『日本国憲法制定の過程ーT原文と翻訳』の翻訳に拠らず、江藤淳『落葉の掃き寄せ/一九四六年憲法その拘束』文芸春秋、の翻訳に拠った。)

三十数分後、白洲にうながされてホイットニー等は再び席についた。松本国務相は「草案を読んでその内容はわかったが、自分の案とは非常に違うものなので、総理大臣にこの案を示してからでなければ、何も発言できない」と述べた。松本はホイットニーの話すことを非常に注意深く聴いていたが、決してホイットニーの顔を見ることはしなかった。

吉田外相は「暗く厳しかった」が、熱心にホイットニーを見つめていた。長谷川翻訳官は、口を開くときに「生理的困難を感じ、たえずその唇を濡らしてい」た。ホイットニーの発言中、白洲は「鉛筆でたくさんノートを取った」。ホイットニーは、最高司令官マッカーサーが天皇を戦犯として取り調べようという圧力から天皇を守ろうと思っていること、この憲法が受け容れられれば「天皇は安泰」になること、さらに「日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民に与えられる」と考えていることを告げた。

また、マッカーサーはこの憲法の案を受け容れることを「要求」しているのではないが、もし「あなた方」が「この案に示された諸原則を国民に示す」ことをしないならば、「自分でそれを行うつもり」であること、そしてこの案を受け容れることが「数多くの人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の機会」であり、「あなた方が〔権力の座に〕生き残る期待をかけうるただ一つの道」であるとマッカーサーは考えていると告げた。

吉田茂はホイットニーが話している間、「両方の掌をズボンにこすりつけ、これを前後に動かしていた」。松本博士は草案中の国会に関する規定について、「そこでは一院制が採られているが、これは日本の立法府の歴史的発展とは全く無縁のものである。従ってどういう考えでこの条文が作られたかを知りたい」と述べた。

これに対しホイットニーは、華族制度が廃止になること、この草案の「抑制と均衡の原理」のもとでは一院制の議会をおくのが簡明であること、アメリカの下院に相当するものは必要がないと考えると述べた。再度、松本博士が二院制の長所を述べると、ホイットニーは「この憲法草案の基本原則を害するものでない限り、博士の見解について十分討議がなされるであろう」と答えた。吉田は、すべて総理大臣に報告せねばならぬこと、総理大臣および閣議の意見を徴してから、次の会談の機会をもちたいと述べた。

最後に、ホイットニーは草案のコピーを十五通おいて行く、次の会談の日取りを知らせてほしいと言った。

P118
「ホイットニー将軍は、立ち上って帰る時に、白洲氏に帽子と手袋とを取って来てもらいたいと言った。白洲氏はふだんは非常に穏やかで優雅な人だが、あわてて玄関の近くの控えの間に走って行き、そこでわれわれの帽子と手袋をヴェランダの隣りの書斎に置いたことを思い出して、急いで戻って来、ホイットニー将軍の帽子と手袋をとり、極度の精神の緊張をあらわしながら、ホイットニー将軍に渡した。」

ホイットニーと三幕僚は、午前十一時十分に官邸から立ち去った。右の記録が日本の現憲法の制定を考える場合、非常に重要な資料であることは間違いない。

江藤淳氏は特にこの記録の冒頭をとり上げ、「ホイットニーは、明らかに日本側に心理的圧迫をあたえようという意図をもって、『太陽を背にして坐った』のである」と言い、また、十時十分にホイットニー以下四名が「ポーチを去り日光を浴びた庭に出た」後の彼らと白洲とのやりとりを「いうまでもなく、ここでもホイットニーが飛び去った米軍機の爆音を計算に入れて、わざわざ『原子力エネルギーの緩和に言及し、米側に三発目の原爆攻撃を行い得る能力があることを誇示して、白洲氏に心理的圧力をかけようとしたことは、あまりにも明らかだといわざるを得ない」と述べている(『落葉の掃き寄せ/一九四六年憲法その拘束』)。

ホイットニーの一連の行動と言辞が吉田等に対して甚だ威嚇的なものであったことは、右の記録を一読する者誰しもが持つ感想であろう。

P119
私は今ここで現憲法が「押しつけられた」のか「押しつけられたものではない」のかという議論をしようとは思わない。また、ホイットニーの言辞や行動に批判を加えようとも思わない。ただ、ケイディス、ラウエル、ハッシーの三人が「会談から戻った直後一時間以内に」「記憶をもちよって、できるだけ正確に情況を記録したもの」(ラウエルの「憲法調査会」宛書翰)という、その記録自体が舞文曲筆とは言わないまでも事実を粉飾したものになっている疑いは充分にあると思う。

ホイットニー等がいかに威風堂々と、オドオドとする日本の代表者達に対して接し、憲法草案を手交したか。あるいは、戦争の勝者が、敗者の立場それも「あなた方」「数多くの人によって反動的と考えられている保守派」の立場も斟酌はするが、「基本的自由」を「与えられる」べき日本国民を充分に尊重した上で、「保守派」の愕然とした反応の中で「劇的緊張感に満」ちつつ草案を手交したという一文を綴ることによって、民政局の権威は高められ、彼らのヒロイズムは満足されるのである。

白洲次郎は、後年の回想(前出の「週刊新潮」)において、「ー略一渡された原文は、議会が一院制になっているほかは、ほとんど今日の憲法の各条文を彷佛とさすに足るものであった。ホイットニー氏も、この日のことについて書いている(引用者注一ホイットニー『マッカーサー』)。

P120
『……私の言葉は、すぐに日本人代表たちの表情に変化をもたらした。白洲はピョコンと跳び上り、松本博士は息を深く吸い込んだ。吉田の顔は、黒雲のごとく暗く曇った』さらに、このぼく(白洲)については、彼らが退出しようとしたとき、彼らの帽子と手袋を取りに行くために、あわてて次の間へ走ったかのようにも記している。外相官邸には秘書官もいるのだから、何もぼくがわざわざ使い走りする必要もないわけだが、この文章のあまりのバカバカしさには、いちいち論駁(ろんばく)を加える気もしない。しかし、ホイットニー氏にすれば"マッカーサー草案"を日本側に渡すのに成功せりの場面を、いっそう劇的に描き出すために、独特の修辞法を試みたのだと思われる」と語っている。

ホイットニー自らが後に記した文章は、ケイディスらの「記録」よりもさらに「劇的」なものだが、先の「記録」に戻ってみると、その最後の部分の「白洲氏はふだんは非常に穏やかで優雅な人だが……云々」という一文には、おそらく彼らの白洲に対する悪意がこもっているだろう。

白洲次郎が本質的に「穏やかで優雅な人」であることに異を唱えるつもりはないけれども、占領期間中、GHQが「従順ならざる唯一の日本人」と本国に連絡した男、そしてホイットニーが「白洲さんの英語は大変立派な英語ですね」と言った際「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と答えた男、そういう男を「ふだんは穏やかで優雅な人」と評するのは、明らかに皮肉である。白洲のその日の動転ぶりを誇張して描き出すことによって、ケイディス等は溜飲を下げたのではあるまいか。・・・・・・・・・・・・いわゆる「ジープウエイ・レター」として有名なものである。

《拝啓
昨日は、G・H・Qに貴下を訪ねました時、貴下は小生が述べた二三の意見にあささか興味をお感じのように見えましたので、失礼ながら、松本博士をはじめ閣僚達、貴下の草案をどのようにうけとったかという点について、小生の感想を思いつくままにもう少し詳しく書くことにいたします。

貴下の草案は、彼らにとって少なからぬショックであったと申さなければなりません。松本博士は、若い頃は相当に社会主義者でした。そして、今もなお、心からの白由主義者です。博士ほどの資質の人にとっても(もし、容易にショックをうけ驚くようなら、誰であれ、法律の教授の職、しかもその指導的な地位を長く維持することはできないでしょう!)、貴下の草案は非常なショックでした。彼は、貴下の草案の目的と、彼の「改正」の目的とが、精神においてはひとつのものであり、同じものであると理解しています。

この国は、彼の国です。また彼は、この国の非立憲性を常々慨歎していました。従って、彼は、たとえ貴下以上ではないにしても、貴下と同様、この国が、これを機にはっきりと立憲的な民主的な基礎の上におかれることを切望しています。彼を初め閣僚は、貴下のものと彼らのものとは、同じ目的を目指しているが、選ぶ道に次のような大きな差異があると考えています。

貴下の道は、直線的、直接的なもので、非常にアメリカ的です。彼らの道は、回り道で、曲がりくねり、狭いという、日本的なものにならざるをえません。貴下の道はエアウェイ(航空路)といえましょうし、彼らの道はでこぼこ道を行くジープ・ウェイといえましょう。(小生は、この道路がでこぼこ道だということを知っています。)松本博士はその感想を次のように描きました。小生は、貴下の立場を十分認めているつもりです。そして、率直にいって、小生はア・・・・・・・・・・

P126
・・・・・・・メリカ側の改正案の目的とが同じであることを喜びつつも、「この文書の原則や基本的形態を損うようなこと」及び、改正作業の「不必要な遅滞」が許されないことが白洲宛に言明されている。白洲の「ジープ・ウェイ・レター」は、松本国務相、吉田外相と相談の上、一任された彼がしたためた手紙であって、白洲の「ヨ三ヨ賃$巴○冨」のみが綴られているのではないと推察されるけれども、手紙の内容の率直さには白洲の個性が光っている。

『白洲次郎の日本国憲法』(ゆまに書房)の著者、鶴見紘氏が指摘するように、手紙では白洲は一貫して、「日本側〈重臣〉を『彼ら』と記して」おり、「本来なら、この『彼ら』は〈我々〉でなければならない」という感想は、この手紙を読む者誰もが持つものであろう。鶴見氏は「だが、一方で"やっぱり、そうか〃とホッとする思いも膨らむ。次郎の、いかにも次郎らしい〈騎士道〉が見えるのだ」と述べているが、私流に考えれば、日本側の閣僚を「彼ら」と呼ぶ姿勢には二つの意味があると思う。

一つは自分は日本の政府を代表する者ではない、あくまで「連絡機関の責任者」・であって、そのつもりでこの手紙を読んで貰いたいという周到な配慮である。そして、もう一つは、そうした立場であるからこそ率直に自分はものが言えるのであり、自分は自分個人に立脚しないもの言いは決してしない、という態度表明であ。

脱線になるが、坂本龍馬が自由で先見性のある視点を持てた所以は、彼が脱藩者であったからだとよく言われる。龍馬の脱藩者の視点、もしくは立場によく似たものが鶴見氏の言う「いかにも次郎らしい〈騎士道〉」なのではなかろうか。そしてそれは彼の方法でもあったと思う。日本の閣僚を「彼ら」と呼ぶ視点で、白洲次郎は占領軍に接触し、日本政府に対しても同様に自由な発言をしつづけたのである。

「ジープ・ウェイ・レター」の語るところを現在読んでみると、重要な点が二つあると思われる・一つは、この手紙ではじめてGHQの草案の、その「○」EΦ2」を評価し、それを伝えている点である(かりに評価しなかったとしても、草案は押しつけられたであろうが)。

そしてもう一点は、幣原内閣が国民の支持による「政党政府」ではなく、言わばその臨時内閣が「あまりにも完全な改革を即時に行なう」ことの不安の表明であり、「改正か発議する権利」を「衆議院に与え」ることをもって一段階としようという提案である・これは占領という特殊な環境を考えに入れなければ、全き正論である。しかし・白洲の手紙は展開を変えるに暫なかった。

以後約三週間にわたる日本政府とGHQとの交渉も効を奏せず、三月五日の閣議で、総司令部案を受諾する方針で、天皇の「いまとなってはいたしかたあるまい」という御裁可を仰いだのである。そして三月六日・幣原内閣は総司令部起草案を、「憲法改正草案要綱」として公表した。先に弓用した白洲の「週刊新潮」の回想を引こう。

P128
《GHQ側は、草案を日本側に手渡すと、その具体化を急いだ。まだ、日本政府内の意見がまとまらないうちの某日(引用者注三月二日のことであったと思われる)、ぼくはホイットニー氏に呼び出された。至急、翻訳者を連れて来いというのである。

そこで外務省翻訳官だった小畑薫良(しげよし)氏(昭和四十六年死亡)らと同道して改めて訪ねると、彼はGHQ内に一室を用意しており、"マッカーサー草案"の全文を一晩で日本語に訳すよう要求した。こうして日本語で書かれた最初の"新憲法草案"は、専門の法律学者の検討を経ることなく、一夜のうちに完成した。もっとも元の英文による原文とて、おそらくは専門の憲法学者の手には触れていまい。せいぜい法律家の目を通していたとしても、戦時応召でマッカーサー摩下に入った弁護士上りの二、三の将校たちぐらいではなかろうか。

したがって、たとえ翻訳の際にこちらの憲法学者が立ち会っていたとしても、何ほどの効果を挙げ得たかは疑問である。が、天皇の地位を規定して、草案が「シンボル・オブ・ステーツ」となっている点は、さすが外務省きってのわが翻訳官たちをも大いに惑わせた。「白洲さん、シンボルというのは何やねん?」小畑氏はぼくに向って、大阪弁で問いかけた。ぼくは「井上の英和辞典を引いてみたら、どや?」と応じた。やがて辞書を見ていた小畑氏は、アタマを振り振りこう答えた。「やっぱり白洲さん、シンボルは象徴や」新憲法の「象徴」という言葉は、こうして決ったのである。》

終戦連絡事務局に関係していた期間、白洲は一日四時間以上の睡眠をとつたことはなく、吉田が外相時代は外相官邸に、総理になってからは総理官邸にほとんど毎日起居していた。白洲の部屋には、総司令部との内線電話が引かれ、GHQの高官、各駐屯地の部隊長クラスからの電話の応接にいとまない。

家族のいる鶴川の自宅には、時たま帰るだけで、鶴川から出て来る時には小田急線に経堂駅まで乗車し、経堂に外務省の車が迎えに来ているという生活だった。そのような生活の中でも、憲法草案の翻訳作業は思い出深かったようである。憲法草案の翻訳作業に立ち会った当時外務省の加川隆明氏によれば、翻訳作業は実際は二泊三日の仕事だったという。当時の思い出を、河上徹太郎氏は次のように書いている。

「その頃私は戦災者として白洲の家に居候してゐたが、彼は一週間ばかりの缶詰から帰ってきて、『監禁して強姦されたら、アイノコが生まれたイ。』と嘯いていた。私はその時それ以上問ひつめる気が起らなかつた。」(『有愁日記』河上徹太郎、新潮社)白洲はまた「週刊新潮」の回想で、マッカーサーがオーストラリアの地で「日本本土侵攻作戦」を開始した時に、新憲法草案は着手されていたのではないか、と推測している。

新憲法が公布されると、政府はこれを記念して「銀杯一組」を作り、関係者に配ったという。白洲がその銀杯をホイットニーに届けた際、ホイットニーはことのほか、この贈り物を喜んだ。そして、《「ミスター・シラス、この銀杯をあと幾組もいただきたいんだが……」といい出した。

その日、ホイットニー氏の部屋には、ケージス次長以下何人かのスタッフが詰めていたが、彼のいう"幾組"という数字は、このスタッフの数をはるかに上回るものであった。ぼくが、その点を改めてただすと、ホイットニー氏はつい、口を滑らせた。「ミスタi・シラス、あの憲法に関係したスタッフは、ここにいるだけではないんだ。日本に来てはいないが、豪州時代にこの仕事に参加した人間が、まだほかに何人もいるのだよ」》と、ホイットニーが白洲に語ったというのである。

果たして憲法草案作成作業がオーストラリア時代から準備されていたのか、現在の憲法制定史の学界ではどう考えられているか、袖井林二郎氏と小関彰一氏に私は電話で尋ねてみた。両氏共に、憲法草案作成に当ったケイディス、ラウエル、ハッシーをはじめ民政局の約二十名程のスタッフは、いわゆる「バターン・ボーイ」ではなく、戦後アメリカ本土から日本の占領軍に加わった人々であり、マッカーサーと行動を共にしたのはホイットニー一人であるから、白洲氏の推測は可能性が薄いのではないかと答えた。

ホイットニーの洩らした「この仕事」というものがどの程度具体的な作成作業か、今となっては知ることができないが、もしオーストラリアにおいて何らかの草案作成に着手していたとすれば、白洲の推測は戦後史に大きな問題点を提起することとなるだろう。

日本政府が「アイノコ」の草案を「憲法改正草案要綱」として公表した昭和二十一年三月に白洲は終戦連絡事務局の参与から、次長に就任する。また、八月には、経済政策遂行の総合的機関として新設された経済安定本部(白洲はこれをアンポンタンをもじつてアンポンと呼んだ)の次長をも兼ねた。

四月十日には戦後初の総選挙で鳩山一郎率いる日本自由党が一四一議席を獲得するが、五月三日付で鳩山は総司令部から追放命令を受け、吉田茂が自由党の総裁に就任する。

吉田は、総理大臣と外務大臣、さらに終戦連絡事務局の総裁を兼ねることを嫌い、白洲に総裁の任に当ることを要請するが、彼は断った。理由は、「僕は政治家じゃないんだし、そんな責任だけ背負わされることはいやだ。そんなのなることない」というものだった。