「家庭再建」は国民的課題 学習院大教授香山健一昭和49年10月8日掲載
敗戦後遺症による荒廃
一国が戦争に敗れると、その後遺症は時として数世紀にも及ぶと言われている。敗戦の後遺症は、物質生活、精神生活の全領域にわたり、政治、経済、社会、文化、教育の全分野に広がるが、精神生活の諸領域に属するものは治癒することが困難で、その回復には非常に長い時間が必要とされるもののようである。
一九四五年、日本はその民族の歴史上初めての敗戦の経験をすることとなった。それ以来四半世紀を経て、あの疲弊し切った産業は驚異的な復興を遂げ、荒廃した焼野原の都市は近代技術の粋を集めたモダンな大都市に生まれ変ってしまった。生活は豊かになり、家庭は電化され、マイカ-は街に溢れ、ひとびとは増大するレジャーを楽しんでいる。一体この日本のどこに敗戦の傷跡や後遺症があるというのか? だが、残念ながら私はこうした見方に同意する訳にはいかないのである。確かに、皮相な観察者にとっては、日本は見かけ上、立派に再建され、敗戦の後遺症などどこにも見当たらなくなってしまっているように見えるのかも知れない。しかし、眼をもっと鋭く社会の内部、人間関係の深部、日本人の精神生活の深奥部に向けて観察してみた場合、日本社会はまだ再建されてはいないし、敗戦の後遺症も十分に治癒してはいないのである。そればかりか、敗戦の後遺症としての日本人の精神的、道徳的生活の崩壊・・・価値規範の喪失、精神的誇りの喪失、人間関係の荒廃・・・はその後四半世紀にわたってなお地崩れのように続いているのである。
人間関係での「思い違い」
「敗戦」を「終戦」と言いかえた日本人は、敗戦の後遺症からもつとめて目をそむけよう、そむけようとしてきた。こうして暗闇に無理矢理に押し込められ、数々のタブーの壁に取り囲まれた後遺症は、それだけにかえって陰にこもり、悪性化してきているようである。そして、それが勤労のモラルの低下、職場規律の退廃、低俗文化の氾濫、教育や医療や政治の荒廃、エゴの噴出、凶悪な犯罪、ひいては自由社会を危機に陥れる全体主義の蔓延などというようなさまざまな症状の形をとってあらわれてくるのである。われわれ日本人はいまやこの敗戦の後遺症を総点検し、自覚的にこれに対処する精神的矜持(きょうじ)を回復せねばなるまい。
あの敗戦の年以来、日本人は多くの途方もない「思い違い」を無理にも信じ込もうと懸命に努力してきたとも言える。家庭の役割、家族的人間関係、日本社会の家族的特質の評価についての戦後の通念も、こうした「思い違い」のひとつであった。家族的人間関係やそれと結びついたモラルはすべて前近代的、封建的なものとして単純に全面否定されてきた。
社会的解体の真の根源
そしてそれに代って、打算とギブ・アンド・テイクの契約に基く人間関係が近代的、合理的なものとして一面的に称揚され、この安っぽく誤解された「近代合理主義」と社会的役割や機能分担を無視した幼稚な男女平等論や人間平等論が結びついてしまった。こうして日本の家庭は、経済的な側面からは、受動的な消費の単位に過ぎないものに追い込まれつつ、その機能を縮小して核家族化し、あたたかい人間関係のきずなを喪失して瓦解していったのである。
私は現在の日本の社会的解体の真の根源は、こうした家庭の崩壊にこそあり、それこそが日本社会の秩序と規律を破壊し、日本社会の美徳と生命力とを損わしめている最大の原因だと考えている。
日本社会のアイデンティティを回復させるためには、家庭を再建することから始めなければならない。家庭を再建するためには、家族や家族的人間関係についての戦後の単純な「思い違い」や偏見を除去し、是正していかなければならない。そこで、ここでは、家族についていくつか「思い違い」の指摘を簡単にしておくことにしたい。
第一に、家族的人間関係を古い、前近代的なものとみなし、契約的人間関係を新しい近代的なものとみなす通念はあまりにも単純に過ぎるということである。そしてこの通念の根底には、近代・・・前近代の陳腐な社会発展の図式と、西欧になくて日本にあるものはすべて前近代的で、悪しきものとみなす、抜き難い舶来崇拝思想がある。日本社会には日本社会の個性があってしかるべきで、それがなければ多様化した世界はありえない。豊かな家族的人間関係は日本社会の長所と美徳の源泉でもあることを忘れてはならない。
「消費」から「生産」単位へ
第二に、一切の人間関係をすべて契約的関係や民主的ルールのみで割り切ろうとするような一面的な考え方は人間社会についての恐るべき無知に由来するといわねばならない。人間と人間との関係には、打算的、契約的なものや民主的ルール以外の価値基準に基づく関係がいくらでも存在している。親子の関係、師弟の関係、夫婦の関係はもとより、上役と部下との間、友人、同僚同士の間、労使の間、サービスの送り手と受け手との間等々には、必ず打算的、契約的な関係、民主的ルール以外の価値が支配する領域が存在している。親子の愛情、師の恩、友人への思いやり、義理人情などはすべてこうした価値に基くものであり、しかもこれらの価値の支配する領域は打算的、契約的な価値以上に高尚な価値を含んでいる大切な領域なのである。これらの価値を古く、封建的なものとして、それにうしろめたさを感ずる必要は毛頭ないばかりか、反対に、むしろ堂々と、胸を張って祖先を敬い、義理人情を専び、親や師の恩を感謝し、不平不満の心によってではなく喜びと思いやりの心のなかに生活を送るよう心がけるべきなのである。
第三に、家庭は単なる受動的な消費の単位に過ぎないものであってはならず、美しい人間関係と生活を生産するための「生産の単位」でなければならない。子供を産み育てる行為以上に、人間にとって崇高な生産活動はないし、生活を設計し、充実した日常生活を生産していく以上に意味深い生産行為はないであろう。かつて家庭は、生産と消費の単位であると同時に、文化的、宗教的、教育的、統治的諸機能を兼ね備えていた。しかし、産業社会の経済メカニズムと経済学のテキスト・ブックは家庭からその社会的機能の多くを奪い去り、家庭を単なる消費の単位に矮小化してしまった。 家庭の再建なくして地域社会の再建もコミュニティづくりも社会連帯の回復もありえない。血縁的人間関係すらも大切にできない人間が、地縁的な人間関係を真に育くめるものとは思えないし、心のかよいあうあたたかい人間関係からなる社会を再構成できるものとも思えないからである。家庭の再建・・・これこそ昭和五十年代の日本人の国民的戦略課題でなければならない。(こうやま けんいち)
産経新聞「正論」欄の35周年を記念し、当時掲載された珠玉の論稿を再録します。
【視点】戦後四半世紀を経た昭和40年代後半の日本は驚異的な経済復興を遂げ、多くの国民は物質的な豊かさを実感できるようになった。敗戦の後遺症は、どこにも残っていないように見えた。だが、香山氏は、その奥深くで日本人の精神的、道徳的生活の崩壊が「地崩れのように続いている」と警告し、日本の伝統的な家族観に根ざした「家庭の再建」を訴えた。その後も家庭の教育力低下に伴う子供たち荒廃が進んだ。一昨年、ようやく家庭教育の重視を盛り込んだ改正教育基本法が成立した。親が子を殺し、子が親を殺すというおぞましい事件が相次ぐ今、
香山氏が発した警鐘の意味を改めて考えてみたい。 (石)
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