心ある人 心ない人

あなたに存在してほしい

中沢
贈与という問題は、くくのち学舎でやろうとしている研究や実践の中心テーマでもあるんです。贈与とは何か。「とらえがたい存在から、この世界に何かが送り込まれている」という思考ですが、いま内田さんがおっしゃったように、人類とはそれを思考の中にセットした生き物なんだと思うんですね。何が私たちの世界に投げ込まれてくるかわからない。

その点では偶然性やそれをゲーム化したギャソブルともかかわっているんじゃないかと思うんですけども、この思考が純化してくると、神様とか宗教の考え方の基礎ができてくる。ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教にはとくにそういう贈与論的な側面が強いんですが、「神様とは何か」というと「私たちに贈与を行う存在である」ということになる。

だから「私は存在しているということを「私は何者かによって贈り与えられたものである=being given」というふうにも表現されることになります。それがこの世界とこの世界に生きている私たちの存在の意味だと理解しようとしています。この理解の仕方は人類に普遍的で、「宗教とは何か」ということを突き詰めていくと、ほとんどこの点に凝縮されると思います。

いまの経済学には、贈与の問題がうまくセットされていません。経済については大きく二つの考え方があると思うんですが、一つは「財(商品)の価値は労働の大きさで決まる」という労働価値説。これはマルクスや古典派の考え方ですね。

もう一つは「財の価値は、効用の大きさで決まる」という考え方で、いまの経済学の主流となっている効用価値説ですね。ところがこの二つの考え方には、贈与という、本来は交換のべースにあるものが見落とされている。贈与論はまず人類学の中で発達したんですが、それと経済学とがつたがっていないんです。

経済学者のハイエクは「市場によって生みだされる特種な自生的秩序」(八イエク法と立法と自由=社会主義の幻想』、篠塚慎吾訳、春秋社より)を意味する言葉としてカタラクシー(Catallaxy)」をつくりましたが、そのもとになったのは、古代ギリシャ語の動詞katallatteinです。

それは「交換する」という意味ですが、それだけではなく「コミューティに入る」とか「敵から味方に変わる」という意味もありました。

つまり、未知の領域からやってくる何ものかとコンタクトして、そこで贈与が起こったときに、その相手は私たちの味方に変容しますよ、というのが古代ギリシャ人の考えです。市場の奥には見えない身体みたいなものが蠢いていて、それは贈与の原理で動いているけれど、そのことは「思考の呼吸法」を整えないと見えてこない。

市場の根底に贈与があることに気づけば、価値についての考え方は大きく変わってくるんじゃないかと思うんですね。

内田 交換のもっとも原初的なかたちはキャッチボールだと思うんです。キャッチボールというのは、ボールのやりとりをしてるだけで、何一つ価値を生み出さない。でも、僕たちは飽きずにこのやりとりを繰り返すことができる。いったい何がそうさせているのか。このゲームを成り立たせている本質は、ぎりぎりまで削ぎ落としてみると、「私はあなたがいないとゲームができない」というメッセージの贈り合いなんです。

もっと強く言えば、「I can't live without you(私はあなたがいないと生きられない)」ごという言葉を一球投げるごとに相手に贈っている。交換がめざしている最終的な言葉というのもそれと同じだと思うんです。「私はあなたに存在してほしいと願っている」。交換の場において、交換する人々はたがいに「あなたにはいつまでも生きていてほしい(あなたがいないと、私は交換を続けることができないから)」という言葉を贈り合っているわけです。

経済活動の起源にあるのは、この祝福の言葉だと僕は思っています。霊長類から分岐して、人類がいちばん最初に獲得した言語は、おそらく祝福の言葉なんだと思います。「あなたにはいつまでも存在してほしいというメッセジを仲問に向かって繰り返し、効果的に伝えるような杜会制度を、たぶん人間以外の生物は持っていない。人間の定義はいろいろありますけれど、僕は「祝福を贈るもの(homobenedictus)」というのも、人間の定義の一つに採用してよいんじゃないかと思います。

人間の経済活動にはさまざまた様態がありますけれど、その起源、その根本にあるのは人間の他者に祝福を贈ることのできる能力だと思います。大昔、サルと人間の中間ぐらいにいた生物種のうちのどれかが、おたがいに祝福を贈り贈られるという関係を通じて生物は生きる知恵と力を爆発的に高めるということを何かのはずみで経験的に知った。そして、「おお、これはいける。

これから贈与の応酬でガンガン行こうじゃないの」っていうことに衆議決して、それから祝福の往還が始まった。というのが、僕のデタラメ人類学なんですけども、中沢さん、どうでしょう?

中沢 それはイケテル人類学です(笑)。

労働意欲が向上するための謎


中沢 
経済における贈与を考える上で、「生産」ということも考え直す必要があると思ってます。このところ消費のことばかり言われて、生産ということが経済学の中で注目されなくなっていますが、生産のほうが重大です。

「生産とは何か」というと、原初的には人間と自然が触れ合って、そこで人間が何かの行動を起こして自然がかたちを変えてくるという、接触面で起こっていることなんですね。自然が何を私たちに贈ってくれるか、完全には予測できない。「なぜいま農業が大事か」という問題は、ここに関係してきます。

農業では、工業と違って、人間が大地の植物や動物に何かの働きかけを行ったとき、向こうから何ものかが贈られてくる。それは予測できない。しかも、人間が加えた労働よりも、はるかに大きなものを贈り返してくれるわけですね。

春に十粒まいた種は、その年の収穫期には千粒に増える、という驚きがあるわけですけれども、生産には基本的に「増えていく」というイメジがあります。いまの産業社会にある「どんどん生産し て増やしていく」という原動力がいったいどこからきているのかというと、人間の中の深いところにセットされているんだと思います。

ですから、人類が農業を開始して、まもなく宗教(組織宗教)も生まれているんですね。農業の発達とともに定住化が進み、やがて国家というものができてくる。ユダヤ教、仏教、キリスト教は、国家が誕生してくるのとほとんど同時期に出ています。

そして産業が生産=消費という考え方ではとらえきれなくなっている現代のハイパー産業社会の中で、逆に贈与性がクロズアップされ始めている。サーヴィス業のベースは贈与ですからね。あらためて農業とサーヴィス業、第一次産業のあいだに通路ができつつあるというのが現代なのではないでしょうか。

重農主義(十ハ世紀後半、フランスのケネーらが提唱した経済思想で、農業を唯一の富の源泉とし、農業生産を重視する)という考え方がありますが、いまの時代に合った「僕らの時代の重農主義」に発展させたいと思っています。


内田
 こちらが働きかけたことに対して、あるときはその百倍のものを返してくれて、あるときはこれだけ労働したにもかかわらずまったく返ってこないという予測不能性は、農業の場合は大きいですよね。

漁業や狩猟でも同じだと思います。爆発的な贈与もあるし、まったく返ってこないこともある。でも、その予測不能性こそが人間の労働を動機づけていると思うんです。努力に対する報酬が予測可能であるほうが人間は一所懸命に労働するという考え方って、人間理解として、あまりに底が浅いと思うんす。

人間の高ハフォーマソスが高まるのは、努力と報酬のあいだに、どういう法則性があるのかが予見できない時ですよね。これは、必ずそうなるんです。

どうしてこんなに努力したのに、これだけの報酬しかないのか。どうしてあまり努力しなかったのに、こんなに豊か報酬が与えられるのか。それがわからない。どういうル一ルで自分がゲームをしているんだかはわからない。でも、われわれの人間的な秩序を超えたところに「見えざる理法」があって、それが万事を決しているということについては直感的に確信できる。

その理法は、あるときは多くを与え、あるときは多くを奪っていく。こちらとしては、なんとかその法則性を知りたい。でも、そのためには労働するしかないんです。

資本主義がどんどん進化していって、ある時点でピークに達したあと本然的な勤労意欲は失われていると思うんです。自分の努力に対して正確に相関する報酬を受け取れる。

そういうわかりやすいシステムであれば、人間はよく働く。そう思っている人がすごく多い。雇用問題の本を読むとだいたいそう書いてある。でも僕は、それは違うと思う。労働と報酬が正確に数値的に相関したら、人間は働きませんよ。何の驚きも何の喜びもないですもん。

中沢 わざわざ新しい学校をつくろうとなんて、しませんよね(笑)。
内田
 人間の労働の根本は、オーバーアチーブですからね。いま自分がやっている努力と報酬のゲームのルールがよく理解できない。だから、そのルールを理解するためにさらに労働する。オーバーアチーブによって何が返ってくるかというと、報酬ではないんです。

報酬とは違うものが返ってくる。オーバーアチーブする人間が受け取るのは、報酬ではなくて、労働とその報酬のやりとりという構造全体についての知なんです。労働した分だけ、少し視点が上がる。自分自身の活動を俯瞰(ふかん)する視点が何センチか、何メートルか上がる。そうすると、自分がどうして働いているのか、どうして交換しているのか、どうして市場や資本があるのか、少しずつ理解が深まってくる。

さらにオーバーアチーブすると、自分を含む世界の構造についての情報がさらに増える。だから、オーバーアチーブする人は、働いた分について「予見できる報酬」を求めてそうしているわけじゃないんです。

自分たちがやっているゲームのルールを理解したいんです。だから、視点がちょっと上がって、そこから見られた風景が意外なもの、驚くべきものであればあるほど、オーバーアチーブは報われたことになる。

労働する人が求めているのは、その「予見できない報酬」なんです。それだけが人をオバーアチーブに誘う。人間の歴史、産業の歴史、生産の歴史はすべて、突出した人たちのオーバーアチーブメントによって支えられてきた。これは否定しようがない。

いまある生産様式や生産手段の内側に踏みとどまって、労働した分だけきっちり報酬を受け取ることを最優先する人間はいかなるイノベーションとも無縁です。イノベーションを担うのは、「もっと楽に仕事をしたい」「単位時間内にもっとたくさんの仕事をしたい」と思う人間なんですから。横着な人間だけがイノベーターになるんです。

横着であるためにはいかなる努力も惜しまないというタイプの人間が学術や技術の壁を突破する。

だから、ほんとうにビジネスマインデッドな人間であれば、「いかにして人々をオバーアチーブに導くか」ということを最優先に考えるはずなんです。そして、一言で言えば、「努力に対する報酬が一意的に予見できるようなシステムをつくらない」ということなんです。

沈黙交易の時代から、そうなんです。交換が始まり、市場が始まり、貨幣やクレジットが始まったのは「単純な交換をしてはいけないという禁忌が働いたからなんです。

でも、いま政治経済について語っている人たちの話を聞いていると、「社会のシステムを単純にして、能力と報酬が相関するシステムをつくればみんたハッピーになる」というような話ばかりでしょう。

経済活動はそもそものはじめから、そんなシンプルなものじゃない。金を儲けたり、出世したりしたいから人間は経済活動をするわけじゃないんです。

人問をオーバーアチーブに導くために、言い換えれば「人間とは何か」についてのメタ認知をもたらすために、経済活動という装置を一つ噛ませているんです。交換という活動を経由すると、人間の自己認知・自己超克の力は高まる。

だから、人間的活動の中に経済活動を持ち込んだわけで、貨幣だの利益だの株価だのが一次的所与としてまずあったわけじゃない。

中沢 その通りでしょう。「これからの日本にほんとうに必要なものは何か」ということが今日のテーマなんですが、そのためには人間の潜在能力の原点へ立ち返ってみることが必要です。そこから照らし出してみると、いまの市場経済は、かなり不思議な制度に見えてきますし、労働と賃金についての考え方も、たかだかこの百五十年くらいしか通用しない考え方たんですね。

精神とは何か
中沢
現生人類が出現したとき、心の根源のところに贈与というものがセットされてあった。人類学で贈与の研究をしていると、どこの民族でもそうですが、贈与としうのは「霊」というものがないと動かたいと考えられているんですね。贈与が起こるときには、必ず霊が動くという言い方をする。等価交換でものを売り買いするとき、霊は動かないんです。ところが、たとえばヴァレンタイソデーにチョコレトを渡したときに、心がチョコレトと一緒に動きますでしょう。チョコレートというものだけじゃなくて、そこに込められた思いが移動します。もの+αで移動している「α」のことを、昔の人は「霊」と呼びました。

ただ、霊という言葉くらい、いま不幸な言葉はなくて、霊性とかスピリチュアルとかいうと、オカルトとかニューエイジとか、その世界の用語になっちゃうんですね。だけど、この霊という言葉に込められているものは、人間の本質と深くつながっています。


僕はなんとかしてこの「霊」という言葉を救出したくてがんばってきましたが、内田さんも、二十一世紀は霊性や宗教性の問題がひじょうに重要になってくるとおっしゃっていて、僕に勇気を与えてくれます。


内田
 釈徹宗先生との対談をまとめた『現代霊性論』という本をいまつくっているところなんです二〇一〇年二月、講談社より刊行)。そもそもは「現代霊性論」というタイトルの大学の講義だったんです。宗教学者の釈先生に宗教的なことについてアカデミックなお話をしていただく。それを僕が横からとんでもない質問をして盛り上げる、という漫才形式の授業だったんです。

僕は宗教学に関しては門外漢で、ろくな知識がありません。自分自身もきちんとした信仰を持っているわけじゃないし、仏教やキリスト教の教理や儀礼についても、よく知らない。でも、自分自身が宗教的な人間だということは、なんとなくわかるんです。

宗教性の本質というのは、大胆かもしれませんが、
知性だと思っているんです。宗教性と科学性って、本質的には同じものだと思うんですよ。自然科学老は目の前に生起する見するとランダムに見える事象について、その背後には数理的な秩序があるんじゃないかと考える。

宇宙を統御している統的な理法が存在するんじゃないかと仮説を立て、とりあえず限定的な領域にのみ妥当する「ローカルな理法」を発見して、それをじりじりと押し広げながら、宇宙全体を整序している原理を発見しようとしている。こういう自然科学者たちの営みの根本にあるのは、「宇宙には人知を絶した、われわれには見えざる理法、秩序がある」という確信なわけですよね。いまのところそれは「人知を絶している」わけですから、「はい、これですとお見せすることはできない。

でも、そのような「宇宙のすべてを説明しきれる数理的秩序」を無限消失点に措定していなければ、いまここでの科学研究はできない。どうして、この「宇宙のすべてを説明する数理的秩序」を先駆的に信じる態度を「宗教性」と呼ばないのか、僕はそれが不思議たんです。

よく科学と宗教を対立させて、科学者は科学的で、宗教家は非科学的だというような愚かなことを言う人がいますけど、それは「科学主義的」な、イデオロギー的な態度であって、少しも科学的ではないと僕は思う。すべての科学者はラソダムに見えるさまざまな現象の背後には、すべてを統制している不可視の秩序がひそんでいることを先駆的には確信している。それと宗教者の「摂理が存在する」という先駆的確信とどこが違うのか。

自分たちの理解が及ぶ、手の届く範囲を超えたところに、さらに高次の理解を絶した秩序があるということについて、どうして人間は確信が持てるのか。これはもう「確信できるんです」としか言いようがない。

人間の知的射程をはるかに超えた境位に、整然たる秩序が存在するということに対して僕たちは確信を持つことができる。おのれの知性の限界を超えるものについての全幅の信頼というものを、僕は自分でつくり出したわけじゃない。

それは誰かによって与えられたものです。僕はこの先駆的に直感された「自分の知的射程を超えた境位に働いている固有の法則性」のことを広く「霊性」と呼んでいるわけです。

それはとりあえず僕たちの手持ちの知的な道具や度量衡では考量できない。だから、現実的基準に照らして言えば、「存在しないことにいたります。でも、「存在しないもの」が生々しく切迫してくるということは、たしかにあるんです。その切迫については確信がある。

キリスト教の弁神論では、「無限者は存在する。なぜならば、人間は有限なのに、無限という概念を持っている。有限な存在である人間が『無限』という概念を有するはずはない。とすれば、『無限』の概念は誰かが私の中に置いたものに違いないからだ」というかたちで神の存在証明をします。

僕の霊性論もだいたい似たようものです。自分の中に「人知を超えた境位」を考想し、確信する能力がある。このような能力は僕がつくったものではありません。外部から到来したものです。


中沢
 よくわかります。僕にも確信がありまして、それは小さい頃に目覚めました。ある昼下がりに庭で遊んでいて、突然、僕の中にその考えが舞い降りてきました。大きなものにつながっている感覚、そして「霊は動く」という考えです。

少し大きくなると、うちはプロテスタントのクリスチャソだったので教会に行かされて、神様のことを勉強するようになりました。ただ、自分を取り巻いている大きなものの感覚について、キリスト教が与えている説明だけでは、僕は納得できなかった。

イエス・キリストという人は生々しい感覚で霊について話しているんだけれど、それがプロテスタントの人たちからは消えてしまっていると感じました。

この感覚に正確な表現を与えてくれたのは仏教でした。仏教は、人間を超えた神について語ったりしません。
「すべてのものはである」という言い方をします。ということは、知性ということです。

私とかあなたとかいう個体を超えた知性が動いていて、それは宇宙と同じ存在で、私たちはそれから縁起を通じてこの世界へ現象している、といったように、私たちを包み込んでいる大きなダルマ(法)について、仏教はいろんなかたちで説明をしようとしています。

それを知ったとき、これこそが自分が子どものときから感じ取っていた感覚、つまり霊性なのではないかと感じたんです。

でも近代の日本語では、霊とか霊性という言葉は不幸な歴史をもっていますね。たとえば、へーゲルに『精神現象学(Phnomenologie des Geistes)』という本がありますが、邦訳されるときに「ガイスト(Geist)」は「精神」と訳されました。だけど、ガイストは英語ではスピリット(spirit)ですから、原題に忠実に訳せば「霊の現象学」なんですね。

神様は自分からは動かない。この世界は神様とすべて同じもので微動だにしないもの。だけど、これも神様の力であるところの霊というものは、そこからはみ出してあふれかえっている。霊とかスピリットとかエスプリとかガイストと呼ばれているもの、それがさまざまに展開してこの世界はつくられている。

というのが、へーゲルの本の主題になってるんですけど、これを精神現象学としたものだから、よくわからなくなっちゃった。まず最初に「精神とは何か」ということを明らかにしておく必要があったんですね。

それは水木しげるさんのマンガでおなじみの妖怪やお化けとも関係しているものだし、人間の心が動いて変化していくときにつきまとっているものも霊なんです。魂と同じく、古い日本語で「たま」と呼ばれるもの。それをちょっと気取った言い方で「精神」と言い直してますよ、

ポルターガイスト(Polter+Geistで直訳すると「騒がしい霊」。物体が勝手に移動したり、音が鳴ったりする超常現象やそれらを引き起こす霊)とも関係している本ですよ、ということをちゃんと説明すればよかったんだと思います。

日本語は、そういう意味では、つくり直していかなければいけない部分が結構ある。明治時代にヨロッパ語を翻訳するときに、漢語を当てはめたり、漢字で新しい概念をつくって、日本人がものを考える上ですばらしい道具がたくさんつくられたと思うんですが、言葉に込められている本質的で素朴な感覚を失わせることになってしまった。

だから、余計なものをいったん取り払ってみて、核心部にあるシソプルなものは何だろうと取り出してみると、すっと胸に入ってくるものがいっぱいあって、霊なんていうのはまさにそうじゃたいかと思うんですね。


内田
 実は僕もいわゆる「霊的経験」をいろいろしてるんですね。大オカルト経験があって、一つはUFOと出会ったこと。もう一つは、香港で猫の霊に崇られたこと(笑)。こういう話をすると「大学の教師がふざけたことを言うな」と怒る人がいるん

ですけど、こういうのって身をもって経験しないとわからないんですよ。UFOって実際に見たら、「見たよ」としか言えない。幻覚でも夢でもなんでもなく、そこにあるんですから。「あらUFOだ」という以外にない。UFOを見たのは、八○年代のことですけど。


中沢
あの当時、よく出ましたね。
内田
え、そうだったんですか(笑)。UFOに繁忙期があるとは知りませんでした。その頃、東京の尾山台に住んでたんです。夏の夕方、合気道の稽古が六時から始まるんで、五時半くらいに家を出て、駅に向かう道を歩いていたら、目の前にUFOがじゃんと出現したんですよ。住宅街のど真ん中、上空三百メトルのところに。

中沢 
僕も八○年代に横尾忠則(よこおただのり)さんと神宮前なんかを歩いているとね、よく出たんですよ。ところが九〇年代になったらばったり出なくなって、横尾さんも話題にしなくなった。「横尾さん、UFOってどうなったの?」って訊いたら、「最近は出ないんだよ」って軽〜く言ってましたけど(笑)。

内田
 でも、実際に目の前にあらわれると、もう、手に触れそうな感じなんですよ。オレンジと白でピカピカ光ってる。なんだかふざけたUFOだたと思って。

中沢 結構ふざけたセンスありましたね、UFOには。
内田
 猫の崇りの話は、話すと長いんで今日はしませんけど、これもすごかったです。大学のゼミ旅行で香港に行ったときに、そこで買った猫の置物に崇られたんです。そのあと同行したうち三人が精神科のご厄介になった。置物を買った学生はそれから数年、後遺症を引きずりましたし、これは当事者だから骨身にしみました。「そういうこ」ってあるんですよ。

世の中には、UFOから猫の祟りまで、いろんなことがある、そんなのは妄想だとか軽々に断定してほしくないです。


「死んでもいい」と「生きろ」
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情報源=日本の文脈 著者=中沢新一、内田樹 角川書店