神ながらは"宗源"である
 神道を理解するためには、まず第一に
「神ながら」を知らなければなりません。神ながらを知るということは、大宇宙から一微生物に至るまでの機構組織や万物造化生成神の元素、原理など、天地の理、万物回帰の大自然の法則を知ることです。

 大宇宙より一微生物に至るまでの全体の認識・掌握なくして部分に専念することは重大な誤りを犯し、災いをもたらす結果となります。

 世にある無数の宗教は宇宙人世(ひとよ)のすべてではなく、神ながらの中の一分野なのです。神ながらを知ってはじめて神道やその他の宗教の立場、役割というものが正しく認識でき、自覚することができるのです。また、これによってはじめて間違いのない天地の理、自然の法則に叶う宗教活動が可能になり、神道とその他の宗教との関係も明らかになるのです。

 三千年の太古から我が日本民族は大自然を神とし、命の源として畏敬し、祀り続けてきました。神ながらとは大自然の姿、大自然の巡り、すなわち四季の運行そのものであり、大宇宙、小宇宙のすべての姿なのです。

 それによって私たちは生かされているということを自覚することができます。つまり、その道を知ることが「神ながらの道」なのです。

 地球上に住む人類は、それぞれの地域(国)で神ながらに生きようとするために安心立命を求めています。それが宗教です。神ながらはそうした宗教のすべてを含み、それを超えたものであり、一言でいえば「宗源=しゅうげん」なのです。諸々の宗教を包含していることはもちろん、科学的なもの、道徳的なもの、芸術的なもの等はすべて、この神ながらに源を発しています。

 宗源とはその源のことなのです。言い換えれば、大宇宙、あるいは自然そのものを生成し、完全なものへと化成する真理・原理・道理が神ながらということです。神ながらも宗教も神を中心とすることに変わりはありません。

神ながらを知る方法としては、先にも述べましたように、まず、
『古事記』を理解することが挙げられます。神ながらをわきまえ、しっかりと神道に立脚する者が真の神道人であり、これをわきまえない者は真の神道人ということはできません。


 広辞苑は
かみながら=かむながら
:(1)かみでおありになるまま。神として、祝詞、遷却崇神「高天原に始めしことをーかむながらーもしろしめして」

(2)神の心のままで人為を加えないさま。神慮のまま。万一三「葦原の瑞穂の国はーかむながらー言挙せぬ国」

★かむながらの道=惟心の道、神代から伝ってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道、神道