海道東征が覚醒させた建国の魂
                     文芸批評家 都留文科大学教授 新保祐司

 去る11月20日、22日の両日、大阪で行われた交声曲「海道東征」復活公演は、補助席が出されたほどの大入りであった。アンコールの「海ゆかば」では、会場の人も一緒に歌って大合唱となり、ザ・シンフォニーホールは深い感動に包まれた。まさに歴史的事件であった。

 精神的呪縛から解放された喜び

 戦後70年の間、封印されてきた海道東征」と「海ゆかば」が演奏されたこの公演会に来られた人々は、信時潔の名曲を聴き、最後に「海ゆかば」を大合唱したとき、戦後の精神的呪縛から解放された喜びを感じたのではないか。これは、単なる「戦前」の復活などではない。そのようにしかとえられない貧しい精神は、逆に戦後」的な価値観に閉塞していのである。会場に響き渡った、この「戦前」に創られた音楽と言葉は、悠久の歴史の回想を人々に齎したのである。

 人々は、それを聴いて、自分という人間が、日本の建国の歴史に精神の深みで繋がっていることに覚醒して、魂の感動を覚えたのである。「戦前」を懐かしがったりしたのではない。日本人としての精神の基層を掘り起こされ、現代という短いスパンの中でその時代思潮に囚われていた自分が打ち砕かれて、日本の悠久の歴史の魂に触れ得た感動なのである。

 その感動のうちに、歴史に対する信頼も生まれてくるのである。この名曲の復活は、優れた芸術は時代を超越するという真実を改めて確信させてくれるものであった。戦後70年という期間でみれば、変な価値観が支配的になった「贋の偶像」たちが跋扈(ばっこ)していて、歴史に対して絶望感を抱いたりするが、やはり長い眼で見れば、歴史には正義があるのではないか、歴史を信頼していいのではないか、ということをこの名曲は教えてくれるのである。

 交声曲「海道東征」の復活が与えた感動は、北原幸男指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団、大阪フィルハーモニー合唱団、大阪すみよし少年少女合唱団と歌手の方々の名演によるところも大きい。指揮の北原さんは「この作品に出合い、人生が変わりました。日本人の品性が立ちのぼる曲。後世に伝えていくことが使命と感じています」と終演後に語られている。

 「勝利を収めた」音楽

 この名曲は、美しい曲だとか、きれいな旋律だとかといった音楽鑑賞の次元に留まるようなものではない。「人生が変わ」るような力を持った作品なのである。これは、会場で聴いた多くの人々が共有した経験であろう。北原さんは「信時先生の日本人としてのアイデンティティーに強く共感した」と言われ、「日本の文化を毅然(きぜん)と表現した音楽ですが、決してがなり立てず、抑制をきかせるところにも品性を感じる。そこが聴く人の感情を揺さぶるんです」とこの曲の魅力の核心を衝かれている。

 この「抑制をきかせ」た音楽の復活を「戦前」の復活などと「がなは、「品性」がなないのである。19世紀フランスの詩人、ボードレールは、1861年に「リヒャルト・ヴァーグナーと『タンホイザー』のパリ公演」という音楽批評の傑作を残した。「ヴァーグナーの音楽は、それ自身の力によって勝利を収めた」と書いたが、「海道東征」の今回の大阪公演の成功は、時代の風潮によるものではない。信時潔の音楽は「それ自身の力によって勝利を収めた」のである。

 また、「私は、一つの精神的手術、一つの啓示を受けたのであった」と詩人は告白したが、「海道東征」を聴いた人は「精神的手術」を受け、日本の魂の「啓示」を体験したのではないか。

 涙ぬぐう人、しめやかな感泣

 いずれ、この日の演奏がライヴ盤としてCD化されると聞いている。ライヴ盤の名盤ということで思い出されるのば、メンゲルベルク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の「マタイ受難曲」である。第二次世界大戦前夜の演奏で、歴史的なライヴ録音として、つとに有名なものである。その理由の一つは、いわゆるペテロの否認の場面にアルトのアリア「憐み給え、我が神よ」が、ソロ」・ヴァイオリンの痛切な旋律とともに歌われるところで、客席のすすり泣きが聴こえてくることである。

 この日の「海道東征」と「海ゆかば」の演奏の最中に、涙をハンカチでぬぐっている人を何人も見た。これは、日本の歴史の魂に触れることができた感動である。「海ゆかば」の演奏のときには、あちこちでしめやかな感泣が聴こえた。メンゲルベルクのライヴ盤のように、今回の演奏会のライヴ盤も会場の音を拾えたら、まさに歴史的な録音になるに違いない。

 北原さんは「後世に伝えていくことが使命と感じています」と言われた。この「使命」はこの日の歴史的事件に立ち会った人々が深く感じたことであろう。来年は、この「海道東征」がまさに「東
征」して、東京での公演が実現することを強く望むものである。日本人の精神的復活は、ここに決定づけられるであろう。(しんぽゆうじ)2016.12.1