![]() 感情はまったくなかった」日本人収容者は郊外への散歩や、近くにある人造湖を訪れることを許されていた。「彼らが水の中でボールを使ってよく遊んでいたことを思いだす。真っ裸で水浴びをしている姿には驚いた」と、シャクールさんは笑う。 日本人が栽培した野菜や果物を分けてもらったこと」や、収容者の恋愛話、ヘビを捕まえベルトを作った男性の話など、記憶をぽつぽつとたどってくれた。 □□ロ デオリ収容所には、日本の同盟国だったドイツとイタリアの人々も収容されていた。ここは現在、インド内務省が管轄する中央産業治安部隊(CISF)訓練センターになっており、約3千人の隊員が訓練を受けている。だが、日本人らが収容されていた事実を示すものは、入り口のそばに数年前に建立された石碑だけだ。 日本人が暮らしていたバラックは、現在は訓練生寮として利用されている。センターを案内してくれたCISFの幹部は、どのバラックに日本人が暮らしていたのか知らず、「日本以外の国から訪問客があるのに、当時のことを知らず、十分な案内ができなくて恥ずかしい」と弁解した。 □□ロ シャクールさんには、日本人同士が激しく対立し、英国人兵士が発砲した事件が強く印象に残っている。この事件は、デオリの日本人収容所についてまとめた「インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった」(峰敏朗著、朝日ソノラマ)に詳しい。それによると、日本の勝利を信じる「勝ち組」と、英字新聞などで敗戦を知り、事実と受け止めた「負け組」との対立が激化。騒乱状態が続いた末に46年2月26日、英軍が一部の収容者を排除しようとしたために、収容者が暴徒化し、英軍の発砲に至った。 死者は計19人に上った。「確か遺体はキャンプ外に埋葬したと思う」とシャクールさんは語る。だが、その場所は記憶にない。 |