自衛隊誕生秘話


    オピニオン 歴史に消えた参謀  吉田茂と辰巳栄一
       「東条軍閥の復活」を阻止せよ
     警察予備隊の創設・・・再軍備へ動く


 朝鮮戦争の開戦からまもなく、北九州一円に警戒警報が出された。日本上空を目視できる距離に、国籍不明機が接近したのだ。日本にとって朝鮮戦争は対岸の火事ではなかった。そんな緊迫の中で昭和25(1950)年7月8日、1通の書簡が首相官邸に届いた。マッカーサーが首相の吉田茂に対し、警察予備隊の創設を命じる覚書を送りつけてきた。

 「私は日本政府に対し7万5干名からなるナショナル・ポリス・リザーブを設置するとともに、海上保安庁の現有海上保安力に8千名を増員するような必要な措置を講じることを許可する」

 「許可する」とは、実際には創設を求める指令であった。吉田は官房長官の岡崎勝男に「ナショナル・ポリス・リザーブねえ、何と訳したものかな」と投げた。岡崎は直訳で「国家警察予備隊でしょう」と返した。吉田はGHQとの折衝で、軍事顧問の辰巳栄一にますます依存し、後に再軍備計画についてもたぴたび助言を求めた。辰巳は荻窪の近衛家の私邸「荻外(てきがい)荘」や旧朝香宮邸の「目黒の公邸」で朝食をとりながら協議した。

 ■警察力の増強なら…

 GHQが求める7万5千人という規模は、朝鮮に出兵した米軍兵力とほぼ一致している。辰巳が念のために根拠を参謀第2部のウィロビー少将に聞くと、日本の警察総数には「20万人枠」があったという。当時の警察力はすでに12万5千人いたから、差し引きの数になったと解一説した。警察力の増強なら、治安に不安を抱いていた吉田にとっては渡りに船であった。「むしろ絶好の機会であるとさえ考えた」(吉田『回想十年』)

 中央線で無人列車が暴走する三鷹事件や、東北本線で列車が転覆する松川事件など世情、不穏な事件が頻発していた。朝鮮半島の共産軍に呼応して、日本国内で内乱が起こる危険性は否定できない。しかし、ワシントンは東京の吉田やマッカーサーほど対ソ冷戦を甘く考えてはいなかった。


 朝鮮半島では、米韓軍が北朝鮮軍の戦車部隊に後退を余儀なくされていた。もはや、極東海軍と空軍だけでは北の勢いを止めることはできない。トルーマンは昭和25年6月30日、ついに地上軍の投入を発表した。

 この時、トルーマンは「もし韓国が陥落するのを許せば、共産主義者たちはこれに勇気づけられて、米国の海岸により近い諸国まで蹂躙(じゅうりん)するようになるだろう」と語った。「より近い諸国」の筆頭は日本である。

 トルーマンの危機感は、朝鮮戦争が第三次世界大戦へと拡大することにあった。その前に、半島の熱戦を何とかして食い止めねばならない。実はそれ以前から、対ソ戦略の理論家で国務省政策企画局長のジョージ・ケナンは、マッカーサーの行きすぎた対日占領政策が中国共産党の脅威に無防備であると考えていた。

 23年1月にケナンは急遽訪日すると、マッカーサーに再軍備のない日本は危険にさらされると説得した。この年6月にはソ連によるベルリン封鎖が開始され、9月には半島の北側に朝鮮民主主義人民共和国が成立していた。

 陸軍長官のロイヤルは翌24年、もし日本がソ連から攻撃を受ければ「米軍は日本を防衛する」と述べ、日本は再武装でしのぐことになると強調した。東京でもGHQ参謀第2部のウィロビー少将は、早くから首相軍事顧間の辰巳に再軍備を語りかけていた。

 「われわれはいずれ撤退する。日本の防衛は日本でやらなければいかん。したがって当然、日本は軍備をもたないといけない」「あなたはそういうことをいうのに、どうして新憲法に第9条(戦争放棄)なんかいれたんですか」

 さすがのウィロビーも困り果てていた。「それはいずれ日本政府が改正すればいいではないか」(『偕行』昭和58年2月号)ところが肝心のマッカーサーは、ロイヤル声明後の3月には、英紙に「日本の役割は"太平洋のスイス”になることである」と中立を求めた。ワシントンに対する挑戦状である。だが、ワシントンはもはや、マッカーサーの見解を尊重するほど寛容ではなかった。断固として日本の警察力と海上警備力の強化に乗り出す。ケナンらは案の末、名目は「警察」でも実態は「陸軍」としての戦力を想定した。

■"暖昧な軍"の誕生

 ワシントンとマッカーサーの鋭い対立は、25年6月に勃発の朝鮮戦争がすべてを変えた。その決定までの間に「日本の再軍備が米国首脳部の対立の文脈から生まれるとは不幸なことであった。警察予備隊を「警察以上、しかし軍隊以下」という不徹底さが、その後の自衛隊を"曖昧な軍"とする素地を作っ
た(増田弘『自衛隊の誕生』)。

 この間、ウィロビーは米軍撤退後の新軍の編成を元大本営作戦課長の服部卓四郎につくらせていた。軍の編成や作戦は、服部ら元作戦参謀にはお手のものだ。「服部機関」は当面、4個師団の編成表と400人以上の幹部リストを作成した。

 民間諜報局のブラットン大佐は、この幹部リストが妥当か否かの検証をやはり辰巳に依頼した。辰巳が書類に目を通すと、確かに元陸軍将校のエリートが選抜されていた。辰巳は「一人の不適格者もない」とブラットンに返した。

 GHQ指令の1週間後、米軍事顧問団の本拠となる民事局別館が、東京都江東区の越中島の旧東京高等商船学校に置かれた。顧問団はウィットフィールド・シェパード少将の下に、初代参謀長にフランク・コワルスキー大佐が就任した。

 コワルスキーはシェパードから服部卓四郎の紹介を受けた。服部が廊下に消えるまで見送り、少将に聞いた。「立派な軍人ですね」「日本の東南アジア侵略の計画も、彼がたてたそうだ。(中略)復員局内でもウィロビー少将の最もお気に入りの人物だそうだ」

 ウィロビーは朝鮮半島の戦況が怪しくなった25年夏、服部作成の幹部リストをもとに旧陸軍将校の採用を考えていた。首脳人事でも服部が警察予備隊の司令官格、西浦進が軍務課長、井本熊男が作戦課長、堀場一雄が調達課長と考えられていた。

 しかし、コワルスキーは予備隊の司令官になる服部の経歴を調べて驚き、服部グループの起用阻止に動いた。彼はマッカーサー元帥に伝わるよう副官に「公職追放された旧軍人が採用される」と耳打ちした(コワルスキー『日本再軍備』)。

 官房長官の岡崎勝男もまた、服部機関のメンバーを知って「何だあの中には東条(首相)の秘書官が3人もいるじゃないか」と驚いた。元秘書官とは服部、西浦、井本の3人を指している(柴山太「戦後における自主国防路線と服部グループ」『国際政治』)。

 民政局長のホイットニーは服部機関どころか「正規将校は一切入れるべきでない」と主張した。元来がホイットニーと合わない吉田も、こればかりは「東条軍閥の復活ではないか」と同調した。吉田の「東条嫌い」は妥協を許さないものだった。

 服部らの再軍備構想には、旧軍復活という大望があり、対米従属をよしとしない。辰巳は服部と同じように憲法改正を前提とした「自主的軍備」を目指しても、米国との協調では温度差があった。

 ワシントンの構想は、あくまで西側陣営としての再軍備であり、日本軍が英米型の民主主義の軍隊になるよう願った。その意味からすれば、服部の構想は日米指導部の双方から排除されることは避けられない。

 最終的にマッカーサーが服部らの排除を決定して、この問題は決着する。服部機関の面々は、彼らが予備隊に採用されなかったのは、吉田側近の辰巳による策謀ではないかと邪推した。"敬称略(特別記者湯浅博)

 情報源:産経新聞H23.1.9