平成25年(2013年)4月29日

月曜日
情報源:産経新聞H25.3.29

首相式辞要旨 沖縄の辛苦に思い寄せて

61年前の本日は、日本が自分たちの力によって再ぴ歩みを始めた日だ。サンフランシスコ講和条約
の発効によって主権を取り戻し、日本を日本人自身のものとした日であった。その日から61年。本日を一つの大切な節目とし、これまでたどった足跡に思いを致しながら、未来へ向かって希望と決意を新たにする日にしたいと思う。

国敗れ、まさしく山河だけが残ったのが昭和20年夏、わが国の姿だった。食うや食わずの暮らしに始まる7年の歳月は、わが国の長い歴史に訪れた初めての、そして最も深い断絶であり、試練であった。

そのころのことを亡き昭和天皇はこのように歌にしておられる。
「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ」。

昭和21年の正月(日本国民の多くが飢餓線上にあえぎつつ、最も厳しい冬をひたすらしのごうとしていたときに詠まれたものだった。多くの国民において心は同じだっただろう。

やがて迎えた昭和27年、主権が戻ってきたとき、私たちの祖父母、父母たちは何を思ったか。今日はそのことを国民一人一人深く考えてみる日なのだと思う。61年前の本日、国会は衆参両院本会議で主権回復に臨み4項目の決議を可決している。これはしっかりと自立した国をつくり、国際社会から敬意を集める国にしたいという決意を述べたものだといってよかろう。

古来私たち日本人には田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈つてきた豊かな伝統がある。その麗しい発露があったからこそ、わが国は灰嬢(かいじん)の中から立ち上がり、わずかな期間に長足(ちょうそく)の前進を遂げたのだ。しかしながら、わが国はしばらく国連に入れなかった。国連加盟まで、一人前の外交力を回復するまで、なお4年と8ヵ月近くを待たねばならなかった。

また、日本に主権が戻ってきたその日に奄美、小笠原、沖縄の施政権は日本から切り離されてしまった。とりわけ銘記すべきは残酷な地上戦を経験し、おぴただしい犠牲を出した沖縄の施政権が最も長く日本から離れたままだった事実だ。「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」。佐藤栄作首相の言葉だ。

沖縄の本土復帰は昭和47年5月15日。日本全体の戦後が初めて本当に終わるまで主権回復からなお20年という長い月日を要した。沖縄の人々が耐え忍ばざるを得なかった戦中、戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉は意味をなさない。

私は若い世代に特に呼ぴ掛けつつ、沖縄が経てきた辛苦にただ深く思いを寄せる努力をなすべきだということを訴えたい。


わが国は再び今、東日本大震災からの復興という重い課題を抱えた。しかし同時に、日本を襲った悲劇に心を痛め、世界中からたくさんの人が救いの手を差し伸べてくれたことも知っている。戦後、日本人が世界の人たちと歩んだ営みは温かい、善意の泉を育んでいた。中でも米軍は、トモダチ作戦によって被災地の人々を助け、汗と、時として涙を共に流してくれた。かつて熾烈(しれつ)に戦った者同士が心の通い合うような関係になった例は古来まれだ。
http://prayforjapan.jp/

私たちには世界の行く末に善をなし徳を積む責務がある。なぜなら61年前、先人たちは日本をまさしくそのような国にしたいと思い、心深く誓いを立てたに違いないからだ。ならばこそ私たちには日本を強くたくましくし、世界の人々に頼ってもらえる国にしなくてはならない義務がある。

戦後の日本がそうであったように、わが国の行く手にも容易な課題などどこにもないかもしれない。しかし、今61年を振り返り、くむべきは、焼け野が原から立ち上がり、普遍的自由と民主主義と
人権を重んじる国柄を育て、貧しい中で次の世代の教育に意を注ぐことを忘れなかった先人たちの決意、勇気であり、その粘り強い営みであろう。

私たちの世代は今どれほど難題が待ち構えていようとも目を背けることなく、あのみ雪に耐え色を変えない松のように、日本を、私たちの大切な国を、もっと良い美しい国にしていく責任を負っている。より良い世界を作るため進んで貢献する、誇りある国にしていく責任が私たちにはある。


http://tamutamu2011.kuronowish.com/syukennkaifukunohi.htm

日本共産党綱領にある共産党体制が・・・できるまで永遠に反対するのであろう

     反米活動先鋭化の「なぜ」を問う   沖縄異様な現状
           ■日米同盟を壊す"賊"を許すな■
沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場で連日繰り広げられる新型輸送機MV22オスプレイ配備に対する抗議行動の異様な現状を、ジャーナリストの井上和彦氏がリポート。基地ゲート前に陣取り、海兵隊員らの運転する車が通りかかるたびに罵声を浴ぴせ、プラカードで運転席の前をふさぐ。時には車を蹴ったり、道路に寝そべって走行を妨害したり。「常軌を逸している」としか表現のしようがない反基地活動家たちの振る舞いは、暴力行為にまで及ぶ。

活動家の行動が原因とみられる交通事故も起きているのだが、驚くのは、沖縄県警が活動家たちをいっさい取り締まろうとしないことだ。現場での行為は黙認。米側が宜野湾署に出そうとした暴力行為の2件の被害届も1件は受理されず、活動家から殴られた日本人の被害届も受理されなかったという。

救いは、この状況を見かねて立ち上がった県民たちの存在だ。その活動や、彼らを待ち受けていた陰湿で危険な"罠(わな)"については、本稿をお読みいただきたい。その中の1人は記者にこう語った。「活動家は米兵を精神的に追い込んで何か事件を起こさせようとしているのではないかと思います。私たちの活動で、少しでも米兵たちの気持ちを和らげたいのです」

日米同盟と在沖米軍のプレゼンスは、尖閣諸島の奪取を狙う中国に対する最大の抑止力だが、反基地・反米活動と中国の侵略行動が同時にエスカレートしているのは、果たして偶然なのだろうか。(小島新一)
情報源:産経新聞H25.4.30