産経新聞平成20年(2008年10月22日)パリの屋根の下で 山口昌子
墨痕鮮やか 日仏条約の原本
日仏修好通商条約が調印されて10月9日で150年。仏外務省には徳川幕府が調印した条約文の原本が保存されている。日本側の原本は日米、日英両修好通商条約の条約文の原本とともに関東大震災の火災で損傷し、公開されていないので貴重な資料といえる。1858年に調印され、「佛蘭西皇帝と日本大君と信誼を結ひ両国の人民交易を通し其交際の永く替らすして両国の為利益ある交易の條約を定んと欲して…」で始まる条約文は、22条と、付則から成る。この日仏修好通商条約と日米、日蘭、日露、日英の各修好通商条約の「安政五カ国条約」は、日本に片務的な関税率や治外法権などを課した不平等条約と指摘されている。
しかし、日仏条約文を読むと、一応、両国の恒久的平和と絶え間のない友情を指摘しており、両国民とその財産の保護などが平等に扱われるという趣旨の記述もある。 第6条では確かに、フランス人が日本人に対し罪を犯した場合は、フランス領事の前でフランスの法によって裁かれると、治外法権が明記されているが、7条には、日本人がフランス人を訴えた場合、フランス領事は事件を友好的に解決することも書かれている。
明治のジャーナリスト、徳富蘇峰は、日本側の交渉者の顔ぶれが違っていれば「あるいはより以上のもの(条約)ができたかもしれぬが、それよりも十中の八九は、より以下のものができたかもしれない」と条約の内容を弁護している。
条約の中に「両帝国」の文字があるのは、フランスがナポレオン3世の第二帝政時代で、日本には「天皇」がいるからだ。フランスは国力が安定し、最も栄えた時代。日本も江戸文化の極みにあった。翌59年9月の条約批准書の交換式でフランス側代表に同行したイリユストラシ オン紙記者は「厳粛で質実な日本の典礼が、中国の祭りを特徴 づけるばか騒ぎや衣装、武器、装飾の途方もない多彩さと対照的」と記述している。
条約締結の前年に仏艦隊司令官が長崎奉行を訪問したときの同紙の同行記者は、「一目で日本人が他の東洋人より優れていることがわかる」と記述。日本側の「部隊の最高指揮官」につ いては「精悍で表情豊かな容貌とともに、鋭い視線に知的ひらめきがある、気高くゆったりした物腰の美男子」と絶賛している。
日仏条約の日本語文書について、仏外務省のナタン古文書担当部長は「なんて素晴らしい筆跡だ」と感嘆する。確かに筆で書かれた墨のにおいが立ち上りそうな文書からは、教養豊かで折り目正しい武士の気概や、著名=写真=をした水野筑後守(忠徳)以下6人を含む幕臣の開港にかける並々ならぬ決意が読み取れる。実は日本語の条約文は「仮条約」となっており、天皇の著名がないことに配慮している。
外国で暮らしていると、誰もが大なり小なり「愛国者」や「憂国の士」になるが、日仏交流150周年の今年、こうした両国の先人たちの文書に接する機会も多く、憂国の士になる度合いが増えているような気がする。
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