倫風宏話(Page34)

自他一如(じたいちにょ)   上廣榮治(ひろえいじ)

東日本を襲った大震災は、文明のはかなさと人間の非力をまざまざと見せつけるとともに、人間が人間であるかぎり変わらぬもの、すなわち人間の「生きる力」と「倫理力」の存在を、私たちに強く印象づけました。このことは六十五周年の式典でも申し上げたところです。

そうした評価は国際的にも共通しているらしく、災害の悲惨さと、被災した人々が示した感動のエピソードをセットで取り上げた報道が、海外のメディアには多かったように思われます。

以下、国際的に称賛された数多くのエピソードの中から、ひとつの実例を取り上げて、お話したいと思います。もちろん、これは一般にも報道されましたから、すでにご存じの方も少なくないと思いますが、見事に実践的で、勇気づけられる話なので、あえて詳しくご紹介いたします。

震災からほぼ一か月後、アメリカのワシントンにあるニュースの総合博物館「ニュージアム」は、津波でいしのまきひび壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市の「石巻日日新聞」社が、被災直後、六日間にわたって避難所の壁にガムテープで張り出した手書きの壁新聞を永久収集物として五月から展示することにした、というニュースが報道されました。


事の発端は、ニュージアムの学芸員が「ワシントン・ポスト」紙の報じた石巻日日新聞の奮闘ぶりに感動したことから始まりました。ニュージアムでは、「これはジアナリストの責務の力強い証である」「時代を超えたメッセージを持った新聞だ」と称賛。日日新聞社に壁新聞の寄贈を申し入れて、実現したものでした。

ワシントン・ポストは記しています。「今、石巻では誰一人としてメールもブログもツイッターも・電話さえも使えない。電気もガソリンも奪われ、打ちひしがれたこの街では、昔懐かしい手法でニュースがもたらされている。紙とペンで、だ」。

大正元年創刊のこの地元の夕刊紙の社屋の一階も津波の浸水によって輪転機が破損。新聞の発行は不可能かと思われました。しかし、社長の近江弘一さんの決断は「新聞を出す。手書きで行く」でした。戦時中、政府の方針で廃刊に追い込まれたときも、わら半紙に記事を手書きして、地域に配り続けたこの新聞社にとって、「原点に立ち帰ればいい。紙とペンさえあれば仕事はできる」という発想は、ごく自然に出たものだったといいます。

「気付き即行」です。記者たちは携帯電話も車も使えないなか、可能な限り正確な情報を求めて、泥水をかき分け、ときには胸まで水につかりながら現場に急ぎました。社員のなかには、車ごと津波に流され一命を取り止めた者や、親族や知人を亡くした者、家が被災して会社に泊り込んでいる者もいましたから、被災者や地域の人たちの気持ちや知りたいことはわかりすぎるほど、よくわかります。

集まった情報は、難を逃れた新聞のロール紙に、懐中電灯やろうそくの灯りをたよりに、一人が赤、青、黒の三色の油性のフェルトペンで記事を書き、他のスタッフたちが徹夜で書き写して、六部を作成。

最初の号外が五か所の避難所とコンビニの壁に掲示されたのは、震災の翌日でした。周りにはたちまち人垣ができたといいます。ある被災者は「水や食料がないのも辛いが、情報がないのはもっと困る」と語って
いました。

最初の紙面には、「日本最大級の地震・大津波東北地方太平洋沖地震」「M9.0 最大震度7 石巻地方6強」「南浜町、門脇町倒壊・流出」などの見出しが並びます。足で集めた地域の最新の被害状況や火災情報もあります。市役所庁舎の外で行なう炊き出しのボランティアも募っています。

末尾には、赤字で大きく「正確な情報で行動を!」と呼びかけています。この呼びかけは毎号続き、できるかぎり正確な情報を提供するという日日新聞の方針を明らかにしています。

十三日の新聞では、各地からの救助隊が到着しつつあることを伝えて励まし、十六日には、この困難を助け合いの精神で打ち負かそうと訴え、最後の十七日には「街に灯り広がる」と通電の開始と喜びを伝えました。

この間、特に重視したのは生活関連の情報で、水や食料などの配布時間、入浴できる場所、再開された飲食店の営業時間などでした。

壁新聞だけではありません。新聞社に情報を求めてやってくる人々のために、必ず一人は居残って、口頭で情報を伝えました。

十八日にはプリンターを使って印刷、十九日には電気も復旧、輪転機も回り始めました。こうして、石巻日日新聞は震災から一日も休むことなく、情報を読者のもとへ届けたのでした。

情報の殿堂入りのニュースがアメリカから入って以来、石巻日日新聞には大手マスコミからの取材が相次いでいるといいます。しかし、近江社長は「地域あっての新聞ですから、僕らのような状況になったら、誰
でも同じことをするでしょう。たまたま僕らがそこにいただけです。ヒーロー扱いはおかしいですよ」と戸惑いを隠しません。

今も「石巻日日新聞」社の入り口には「がんばろう石巻」の立て看板が掲げられ、「愛する地域を未来の笑顔につなげる」というスローガンの下に、生活を支え、人々を元気づけ、復興を応援する紙面を作り、石巻市と東松島市女川町の四十か所の避難所と本社や市内の拠点では、無料配布も続けています。

人間の価値は危機に直したときに最もよくわかるといわれます。自分たちの地域が崩壊の危機にあるとき、即座に人々のために何を為すべきか、自分の責務を直感し、真っ直ぐに突き進んだ行動力と気迫、それを支えきった気力。それは見事な実践でした。

仏教に百他一如=じたいちにょ」という言葉があります。すべての存在は、どこかでつながっているのだから、他人の痛みは自分の痛みであり、他人の喜びもまた自分の喜びである。他人を愛することは、自分を愛することである。「自分と他人は一つの如し」ということです。それは、「我も人ものため」の実践や「共生」の理想が行き着くところでもあります。

さらにいえば、それは、人間は大自然の一部であり、自分もまた大自然の一部であるという実践倫理の基本的な考え方にもつながっていきます。

日日新聞の人たちの奮闘は、まさしく地域の人たちと自分が一つになった「自他一如」の姿でした。もちろん彼らだけではありません。消防士、医師、看護師、役場の職員、福島の原子力発電所で身体を張って作業する人々、そして多くのボランティア等々。多数の人々の「自他一如」の働きを私たちは知っています。

さて、私たちは、今日一日、最善を尽くして生ききっているでしょうか。あなたの実践は、「自他一如」の実践になっているでしょうか。