境のなかで、案外生き生きと暮らしていて、ときには贅沢(今の私たちからすれば、それはささやかなものでしょうけれども)もしていたという証拠ではないか」と。つまり、お触れ=窮屈な世の中というような短絡思考ではなく、このようなお触れが出る社会とはどういうものだったのだろう、そこで庶民はどういう暮らしをしていたのだろうと想像していく、そういう歴史の学び方を知ったのです。
鎖国によって西洋の科学技術から遅れたというマイナスがある一方で、当時の西洋が30年と空けず戦争を繰り返していたのに、江戸時代の日本では世界史でも稀なほど長く平和が保たれ、文化が欄熟していったというプラス面がある。
身分制度についても、親の職業を継がなければいけない、職業選択の自由がないなんてかわいそうだという面がある一方で、そのことによって人間が鍛えられ、技術が継承されていったというプラス面
があるのではないかと。
☆ 固定化せずに違う角度からも光を当ててみる。
白駒 そうです。多面的に見ないと全体像はつかめません。こういう見方から私は歴史には光と影があるということに気付くようになりました。今思うと、この見方がレールとなって後に近現代史についてもバランスの取れた見方ができるようになったのかなと思います。とはいえ、そこに行きつくにはまだまだ体験が必要でした。
インドネシア人教授との出会い、自虐史観からの脱却
☆ それはどのような?
白駒 先述したように日本が嫌いだった私は、20代になって海外への憧れがますます募り、国際線の客室乗務員になりました。ところが海外に出て日本という国を外側から見る機会が増えたことで、日本の良さが見えてきたのです。自然の美しさ、人としての美徳、2600年以上も連綿と続く歴史の
重み……なんて美しい国なんだろうと。愛国心の芽生えでした。
合わせて自虐史観の呪縛からも徐々に解き放たれていきました。海外に行くようになるまで、私は日本人は世界から嫌われている、憎まれているとさえ思っていました。それが実際はこんなに尊敬されて、信頼されていたんだということを肌で感じて、徐々に日本人としての誇りや自信を取り戻していったのです。そんな私の近現代史観の転換の決定打となったのが、あるインドネシアの大学教授との出会いでした。
航空会社を退職後、経団連の社会貢献事業部(現在、この部署はないそうです)のお手伝いをしていたときのことです。そこでは毎年春と秋に、東南アジア諸国から優秀な教育者や学生を招いて、日本の企業と交流し、日本の文化に触れてもらおうという事業を行なっていました。
当時、私は外部スタッフとしてアジアからのお客様の案内係をしていました。インドネシアの大学教授のご案内をしたときのことです。その教授がふいに私に「私たちインドネシア人は先の大戦を日本の侵略戦争とは思っていません」とおっしゃいました。
戦後教育で「侵略戦争だった」と習ってきた私は驚きました。続けて教授は「私たちインドネシア人は日本という国が大好きで尊敬しています。そして、日本人に感謝しています」とおっしゃいました。
当時私は日本の近現代史を中途半端に理解していたので、戦時中日本がインドネシアを統治していたことは知っていましたが、一般的な考え方でいうと、他民族から支配を受けていれば、その支配している民族を憎んだり嫌ったりするのが普通ではないかと思っていました。ですから、その意外な言
葉に驚いて思わず聞き返しました。
すると、教授がインドネシアの歴史を語ってくださったのです。《たしかにインドネシアは戦時中の数年間は日本の統治を受けていた。しかしその前は350年の長きにわたってインドネシアはオランダの植民地だった。これはオランダだけでなく欧米の植民地政策すべてに共通して言えることだが、彼らは本国の繁栄のみを考え、植民地の人々を搾取した。愚民化政策で教育の機会を奪い、安い賃金で奴隷のようにこき使い、暴利を貧った。悲しいかな、私たちはそんな暮らしを350年も強いられて慣らされてきたから、それが当たり前だと思ってきた。
そこヘオランダ軍を駆逐した日本軍がやってきた。当初自分たちは、昨日までのオランダ軍が今日から日本軍に取って替わる、ただそれだけのことだと思っていた。ところが日本人はオランダ人とはまったく違った。日本軍のリーダーの一人、柳川宗成(もとしげ)さんは、インドネシア人に向かって、こう呼びかけた。「我々日本軍はインドネシアの独立のためにやって来た。
日本の進んだ仕組みをこのインドネシアの地で再現するから、あなたたちは来たるべき独立の日に備えて、いち早くそれを身につけなさい。あらゆる民族にとって大切なのは独立である」と。
しかし、当時のインドネシア人は350年という長い間、奴隷のような暮らしをしてきたから、当初は、独立とか言われてもまるで意味が分からなかった。日本人はふがいなさを感じたと思うが、それでも彼らはあきらめずに根気よく伝え続けてくれた。そして、言葉だけでなく実際に行動で示してくれた。
学校をつくり教育を普及し、インフラを整備し、近代的な政治制度を導入し、後に国軍の基になる祖国防衛義勇軍を組織し軍事訓練を施してくれた。》
教授の熱弁は続きます。《こうして独立に向けて準備が整っていったが、昭和20年、日本は敗戦した。日本軍は日本へ引揚げなければならない。しかし、日本軍人たちの中には、「自分達は今までインドネシアの人たちに独立の大切さを訴えてきた。本国が負けたからといって、このままおめおめと日本に帰ってしまっていいのか。おそらくまたオランダ軍がこの国を支配するために我が物顔でやってくるに違いない。
しかし我々の教育で変貌したインドネシアの人々はオランダに対して独立戦争を挑むだろう。自分たちも一緒に戦うべきではないか」と言ってインドネシアに残り、その後のオランダとの独立戦争を共に戦ってくれた日本軍将兵が2000名いた。また、引揚げた日本軍人たちも連合軍に接収されるべき武器をひそかに横流ししてくれた。》
教授はインドネシアに残った日本軍人の数を2000人と言われましたが、数については諸説あります。少なくとも1000名以上の日本軍人が残り、そのうち約半数が戦死しました。教授はまた、インドネシアの青年たちを鍛え上げた柳川宗成中尉のその後の話もしてくれました。
《柳川さんは、戦後、日本へ帰った。残留を選んだ日本軍将兵たちからは、インドネシアを見捨てるのか、と後ろ指を指されたが、そのとき柳川さんは、「見捨てるのではない、見守るのだ。独立は自らの手で勝ち取るべきものだ」と答えたという。
しかし、昭和39年、柳川さんは家族を連れてインドネシアに移り住み、生涯をインドネシアで過ごした。本当に見守ってくれたんだよ。》
☆ 柳川中尉と共にインドネシアの青年の指導にあたった土屋競中尉も率先垂範の姿勢で現地では尊敬されていましたね。
白駒 そうなんですよね。ただ当時の私は本当に何も知らなくて、初めて聞く教授の話に驚きつつも感動していました。戦時中の大東亜共栄圏とか八紘一宇などは所詮アジアを利用するためのこじつけだったのではないか、などと思い込んでいたのに、まさか本当にその理想を信じて人生や命までも捧げた日本人がいたなんて……。
でも本当に教育の影響とは根深いものです。私は半分では感動しつつ、もう半分では、「それでもどんな理由があろうと戦争なんかすべきじゃないし、他国を植民地支配すべきじゃない」という考えがあって、そのことを教授に伝えました、すると、教授はすごく悲しそうな顔をした後、今度は険しい表情になって私に迫ってきました。
《では、あなたに尋ねますよ。インドネシアはほんの数年でしたが、日本が長い間、統治していたとこ
ろがありますよね、それはどこですか。》私は「台湾と韓国です」と答えました。すると教授は、《そうです。では、そこは今どうなっていますか。どちらも先進国ではないですか。欧米が植民地支配していた国のどこにいま先進国があるのですか。
日本が長い間統治していたところだけが先進国になっているのです。つまり、同じ「植民地」という言葉で表されたとしても、その中身が欧米と日本とではまるで違っていたことの証ではないでしょうか》と。
私はそのときにようやく腑に落ちたのです。これが私が自虐史観から解放される大きなきっかけとなりました。
☆ 近現代史の光の部分を知って初めて日本人としての誇りが湧いてきたのですね。
白駒 そうです。どんな人間にも、そして国にも光と影がある。その両面を知ったうえで自分自身の歴史観を持つことが大切だと思います。また、この教授との出会いをはじめ、私は海外の様々な人々とのご縁を得て、愛国心に目覚めたと思うのですが、ここで注意したいのは真っ当な愛国心を持つことが大切だということです。
真っ当な愛国心とは、自分の国を深く愛するがゆ桑に、他国の人の愛国心も理解できるという姿勢を持つことだと思います。 オリンピックで恥を掻かないように、真っ当な愛国心教育が必要ですね。
神話と歴史が一本の糸でつながっている奇跡の国
☆ 歴史に学ぶ具体例をお聞きしたいのですが、本号が建国記念の日特集号ということもあり、今回は日本の建国についてお伺いできればと思います。
白駒 私は恥ずかしいことに21歳のときオーストラリアを旅行するまで、日本という国がいつどうやってできたか知らなかったのです。40日間のオーストラリア旅行のうち2週間はホームステイをしたのですが、そのホストファミリーの主婦の方が日本に興味を持っていて、「オーストラリアの建国は浅くてまだ200年ちょっとだけど、日本はすごいわよね、2000年を超えているんでしょ」といわれて私は肯定も否定もできなくて、「えっ、そうだったんですか」と。
それで帰国してからいろいろ調べたというのが、私が最初に日本の建国を知るに至った経緯です。調べてみて、まず、日本は世界最古の国だと知ってびっくりしました。デンマークがおよそ1100年、イギリスが約950年。日本は2600年を超えていて断トツの世界一。
初代神武天皇から125代今上天皇まで連綿と続いている。さらに神武天皇は天孫降臨のニニギノミコトの三代後で、私はこのことにまた驚きました。つまり、神話と歴史が一本の糸でつながっている。これは、他の民族にはないことで、たとえ神話を持っていても、それは神様の話で、人間が紡いできた歴史とは別物というのが普通なのに、日本の場合には、神話と歴史がつながっている。これは世界史の奇跡です。と
いうことは私達一人ひとりが神様の末喬なんです。これもすごいことだと思います。私は明治生まれで江戸っ子の祖母にかわいがられて、祖母からいつも「お天道様が見ているよ」と教わったんですが、これには二つの意味があると思います。誰が見ていなくてもお天道様が見ているんだから、悪いことはしちゃいけないという戒めがひとつ。
もうひとつは人生には良いとき悪いとき、喜び悲しみなどいろいろあるけれども、どんなにどん底のときでも、まことの心をもって誠実に生きていたら、それをお天道様は見ているんだから、お天道様はそんなお前を放っとかないよ、だから安心しなさいという励まし。
この二つの意味があったのかなって。これに関連して、エルトゥールル号の遭難と救助、その恩返しを題材とした映画『海難1890』で、おそらく編集段階で割愛されたシーンらしいのですが、台本の段階で素晴らしいセリフがあったと伺いました。
紀伊大島の村人たちが救助したトルコの人たちに、自分達がその日の食べ物にさえ事欠いている貧しい状況だったにもかかわらず、貴重なお米を炊き出し、さらには非常食に取っておいたサツマイモやお正月用の鶏までも提供する。子供が「父ちゃん、それまであげちゃうの?うちが食べるものがなくなるよ」。
するとそのお父さんが「そうさなあ、お天道様がなんとかしてくれらあ」と。お天道様が放っておかない、お天道様がなんとかしてくれるという信頼、安心感があったから日本人は生きてこられたのかなあと。
☆ 皇祖はまさに日の神様でいらつしゃいます。
白駒 はい、天照大御神様。宮中三殿の賢所、そして伊勢神宮をはじめ全国各地の神社でお祭りされています。日本という国名も「日の本」の国ですから、日本人は太陽が命の源であるということを何よりも自覚していた民族だと思います。
私達は自分の力で生きているように錯覚していますが、実は大いなる力によって生かされている。太陽を始め自然の恵み、両親やご先祖様、そして先人達のお陰で生きている。この三つの恩、三つの恵みに感謝してきたのが日本人なのではないでしょうか。
☆ 日本人の遺伝子のスイッチをオンにする鍵とは
白駒 よく若者が「自信がないからできません」「第一歩を踏み出せません」といいますが、それは日本人の遺伝子のスイッチがオンになっていないからではないかと私は思うんです。日本人の遺伝子のスイッチをオンにする鍵は、恩を感じるセンサーを育むことです。
私は多くの人の善意、厚意の上に生かされている、その恩に報いたいと思うと元気が出るんです。私はおばあちゃんに「お天道様が見ているよ」といわれたときに、何をイメージしていたかというと空に輝く太陽ではなくて、お天道様という存在が自分の心の中にあるといつも思っていたんです。
ごく普通の昭和の家庭で特別の宗教教育を受けてきたわけでもない私が「お天道様は私の心の中にいる」と自ずと思えていたというのは、日本人のDNAの為せる業なのかなあと。
☆ 学校の授業や講演などで、神話やお天道様の話を子供たちはどう受け止めていますか?
白駒 びっくりしますよ。子供たちに「日本という国ができて何年だと思う?」と聞くと、「1000年くらいかなあ」とかいろんな答えが返ってきます。「2675年だよ(※平成27年時点)」というと、「ええっ!」とみんな目を輝かせますね。
後に送られてきた感想文には「日本が世界で一番古い国だということを家に帰ってお父さんお母さんに話しました。するとお父さんお母さんが、そんなすごいこと知れてよかったね、とほめてくれました」などと、かわいらしい感想が返って来てうれしいですね。
(次号に続く。次号〈後編〉では「日本史に学ぶことで癌が消えた」「天命追求型の生き方」など、お話を伺いました。)
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