海外旅行創生期 制約だらげの"高根の花"
東京五輪を半年後に控えた昭和39年4月1日、政府関係や業務、留学などに限られていた日本人の海外渡航が「年一回」、外貨持ち出し500ドルまで」の制限付きで自由化された。この年に発券されたパスポートは、前年比34・8%増の12万4000冊に達した。」日本旅行業協会によると、自由化1週間後にツアー第1陣が羽田を出発。


ハワイ7泊9日間の旅で料金は36万4000円だった。大卒の国家公務員の初任給が1万9000円の時代、現在の物価では約400万円になる。庶民には高根の花だった。

当時、日本旅行で富裕層を狙ったヨーロッパの団体旅行を企画していた大山冬臣さん(74)=千葉県我孫子市=は「1ドル360円の時代、500ドルでは何も買えなかった」と懐かしむ。土産は免税店の洋酒とたぱこ、香水、スカーフと決まっていた。

パリの一流店では「品がない、言葉が通じない」などと団体での入店を断られた。欧州の五つ星ホテルは信用がない日本人を受け入れず、大金を払っても泊まれるのは三つ星止まりだったという。

日本人の海外旅行に変化をもたらしたのがジャンボ機。45年3月にパンアメリカン航空が、7月には日本航空が、それぞれ日本の空に就航させ大量輸送時代を迎えた。団体運賃導入で正規料金の60%引きツアーも組めるようにり、一気に海外が身近になった。39年に12万7000人だった海外渡航者は、ジャソボ登場2年後の47年に139万人を記録。平成2年には100万人を突破した。(写真報道局大山文兄)





情報源=産経新聞H27.5.24