松永安左エ門 「青春」の翻訳の真相
一九八四年一月十二日の夜、自宅に戻ったら榛原製の和紙の厚い封書が机の上にあった。神戸の東灘区、伊藤恭一の住所印がていねいに押してあった。

作山 宗久様

新年を慶賀申し上げます。
未だ拝眉の機を得て居りませんが、貴方様より宇野収君苑の御手紙を拝見しました。
サムエル・ウルマンの「青春」の同好者が斯くも増えたことに喜ぴを感じます。
自己紹介をしますと、一九一四年に生まれ、軍務を経由して呉羽紡績鰍フ社長に昭和三八年に就きました。戦後繊維産業はいち早く復元し輸出に努め弗をかせぎ、ブラウスを始めとし国際貿易問題になりました。昭和三〇年頃から度々欧米に商用や技術導人で出張し、米国、英国、欧州諸国の繊維産業を深く研究し調査しました。

昭和三十三年春米国クリーブランドで或るコンサルタントの事務所で初めて英文の青春詩をフレームに入れて掲げてあるのを見て、その名文、その情熱に感激し、一部コピーをしてくれといい残し(当時今の如きゼオグラフィーなく、オザリッドと称する乾式紫焼が最新歩のものでした)、夕食に出てそのまま忘れて帰国しました。

程なく或る人から和文「青春」を頂き、電力の鬼松永安左エ門氏の名訳であるとのことでした。私の亡父忠兵術が松永さんと親しかったし電力研究所の方々や御養子の安太郎さんに確認した所、松永老は自訳とは言はれなかった由ですが文中各所に松永老の常用の言葉があり、安太郎氏はまちがいないと言っていました。

その後前後しますが、N・Y・ロータリークラブの昼食会でマッカーサーがスピーチし、この「青春」に言及してます。"The Rotarian"と言う月刊誌に出てますが,私の入手したものとちょっとちがいます。大日本印刷の北島社長、松下幸之助さんも時々採用されます。貴信中バーミンガム図書館迄自ら赴かれし由敬服します。

私はジョージア、アラパマ州の紡績工場によく出かけますが、知人に(伊藤忠商事バーミンガム支店の十合君に)頼んで図書館で調べて頂き、あの原本をコピー(XEROX)して送ってもらいました(一九七○年と記憶する)。一方、大阪米国領事館⇒大使館を通じ、サムエル・ウルマンの子孫を調べてもらいましたが、十日程して令息(同名の方でした)の住所が判り、手紙を出したら全くの人違いだと判明しました。親子、同名でしたが違った方はS・E・C勤務の法律家の様でした。

私は一九七四年に東洋紡の会長を辞し今相談役として気楽にしています。
やはり一九七四年会長を辞するに当りこの詩和英を印剛し、知人友人に一五〇〇部配布しました。宇野収君は呉羽紡績の俊秀で昭和四一年合併で東洋紡に入った男です。

ある時、結婚式披露で私が正客でこの詩を英語で「さわり」を読み式辞に使いました。これを聞いた宇野君は大変感激し、読むのと耳から入るのは、こんなに違うものかと言っていました。そして日経随筆に掲載されたので米国からも(日系女性)反響がありました。貴方様のように最後まで追及せず棒を折ってしまいましたがもう一度二五年間に集めた資料を一まとめにします。

何故米国人はほとんど感激しないのか不思議です。文中より貴方様は度々海外出張されるように拝しますが、未だ米国人(かつてはプリントしたもを携えて渡航し、月せましたが)は一人も感激的表現をした者はおりません。国民性の差でしようか。サムエルの他の詩はありふれたもので一向関心を引きませんが"YOUTH"だげ一人高くそびえる富嶽にもたとえられます。
乱筆乱文にて失礼しました。感激を得て走り書きにて。早々

一月十日
                  伊簾恭一

青春の連環であった。行間から「青春」に対する熱情が私の胸をひたした。

V

一九八四年四月、宇野収さんはバーミンガムを訪れ、マイヤーに会われた。そのときのことを「東洋紡社報」一九八四五月号の巻頭にこう書かれている。


情報源:「青春」という名の詩:ページ84〜87から。