石田小学校 (創立明治ハ年五月一二日) 戦時下の石田小学校・国民学校の思い出

石田小学校卒「関西壱岐の会」 齋藤茂夫

私は昭和一桁生れの後期高齢者で、昭和13年4月石田尋常高等小学校初等科に入学、昭和19年3月石田国民学校初等科を修了しました。昭和16年4月勅令により、尋常高等小学校は国民学校に改編され、明治以来約70年間、人々に親しまれた石田尋常高等小学校は消滅しました。私の小学校・国民学校時代は、支那事変から大東亜戦争へと、戦争の真っ只中でした。従って小学校・国民学校の思い出は、すべて戦争を中心とした話題となります。昭和13年は支那事変も2年目に入り、連日の新聞報道は連戦連勝、日本国中は勝利に酔いしれ、壱岐でも旗行列などが繰り広げられました。やがて昭和16年には大東亜戦争の大詔が?発され、私が国民学校初等科を修了する昭和19年3月頃は、ビルマ・インパール作戦で死闘を展開中。戦局は極端に悪化して一刻の猶予も許されない時代でした。

私は昭和13年石田小学校に男女101名と共に入学。新1年生は男女共学で、梅組と桜組の2組に編成され、私は梅組でした。梅組のご担任は、初山村ご出身の有浦ツマ先生。有浦先生は始めて小学校に上がる児童教育のベテランで、毎年新1年生のご担任でした。私達は有浦先生の母親のように慈愛溢れるご指導のもと、希望と喜びと夢に満ちた小学生生活が始まりました。新1年の教科は修身、国語、算術、図画、唱歌、体操、手工等です。始めて手にした1年の国語教科書の表紙は、明るい薄樺色で挿絵も色刷りの、斬新な国定小学国語讀本巻1でした。表紙を開くと見開き2頁に亘って、満開の桜が色刷りで描いてあります。有名な「サクラ讀本」です。

私達は有浦先生のご指導のもと「サイタサイタサクラガサイタ」と、元気一杯声を張り上げて読みました。「コイコイシロコイ」「ススメススメヘイタイススメ」「オヒサマアカイアサヒガアカイ」「ヒノマルノハタバンザイバンザイ」と続きます。1年生の讀本や修身など全ての教科書は、片仮名で平仮名は2年生からでした。時代は移り小学校から国民学校となり、戦局は益々逼迫、国民学校生活も激変しました。登校は集団登校となり、私達は決められた場所に集合、高等科2年の班長に引率されて、2列縦隊左側通行で登校しました。登校中は無用な私語は許されません。学校に着くと真っ先に奉安殿に最敬礼して、一旦教室に入り鞄を置き、晴天の日は直ちに運動場に飛び出します。石田国民学校では降雨日を除き、毎朝運動場で朝礼が行われました。朝礼では柏木正続校長先生又は山川胤美副校長先生の訓話を聞きます。

訓話では大本営発表の戦果を聞くのが楽しみでした。先生から「巡洋艦1隻轟沈、駆逐艦2隻撃沈、戦闘機10機撃墜」などと赫々たる戦果を聞き、血湧き肉躍りました。純粋培養の軍国少年だった私は、しっかり勉強して一日も早く立派な兵隊さんになって、御国の為に尽したいと思いました。国民学校での主要行事は四大節式典参列です。四大節とは四方拝、紀元節、天長節、明治節。式典参列で忘れられないのは教育勅語奉読風景です。式典冒頭で柏木校長先生が勅語を奉読されます。校長先生は、モーニング礼装で絹の白手袋をはめ、紫の献紗を広げ、白木の箱から教育勅語を取り出し、巻物の紐を解いて広げ、頭上に押し戴きます。この時私達は一斉に頭を下げ、会場は咳払い一つない静寂になります。やがて校長先生の勅語奉読が始まります。
私達は勅語奉読が終わるまで、頭を下げた姿勢を続けます。3分位して奉読が終わり、やっと頭を上げます。その時あちこちからズーズーと鼻水をすすり上げる大きな音が起こります。当時の多くの児童は鼻垂れでしたが、鼻水をかむ紙さえも持っていなかったからです。前記のほか数多くの思い出がありますが、紙幅の制限から思い出の主要項目のみ列挙します。出征兵士の見送り、戦没英霊の村葬参列、出征兵士留守家族の手伝い、防空壕掘り、遠足、海水浴、学芸会、運動会、茶摘み等々で思い出は尽きません。以上の私の思い出は、60歳代以下の戦争を知らない若い方々には、応仁の乱か関ヶ原の戦いと同じような出来事と思われるかも知れませんが、ほんの70年前の出来事です。最後に私の一寸した自慢は、小学校から国民学校までの6年間を通し、級長を拝命したことです。平成21年ユ月25日記。



石田小学校卒大竹博子(旧姓山内)
印通寺湾を一眺する高台で育ちました。水平線の彼方からのぼる日の出を見て、貨客船から伝馬船まで、出船入船を見てくらしました。この絶景は私の誇れる、ふるさとの風景です。春。昭和二十六年、母方の祖母にいただいた赤いランドセルを背負い、村立石田小学校一年生となりました。入学当時は渡り廊下の長いことや、数が多いように記憶しています。体が小さかった為にそう感じたのでしょう。校庭ではドッチボールをして遊びました。おおかわでオタマジャクシを掬って遊びました。自妹は遊びの宝庫です。唱歌「春の小川」に重なる私の心の風景です。夏。やっぱり海。くちびるの色が変わり、体がふるえる迄泳ぎ、大きな石の上で腹這いになり、温熱を施しまた泳ぐ。

海からは子供達の賑やかな声が聞こえ、夏はまっ盛りです。夏休みは早朝から、せみ取りや海水浴に勤しむ毎日でした。秋。運動会。母の手作りの提灯ブルマ。ありがたいことにたすきがけ。デザイン的には可愛いいのですが、これはトイレでてこずり、泣きたい時もありました。運動会の楽しみは、両親がお弁当を持って応援に来てくれます。部落対抗リレー等あり、地域全体で楽しんでいたように思います。冬。縄とび、ビー玉、パチ、凧揚げ、缶けり、ゴムとび等々。数えきれないほどの遊びを、年令の異なる子供達と遊びました。遊びの中でのイサカイも、子供同志で解決していたように思います。結果に多少の不公平はあったとしても。冬休みには、夜回りで町内をまわりました。つづく