天皇陛下お言葉
被災者に心を寄せ改善の努力期待

東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。1年前の今日、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。

その中には消防団員を始め、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な間題が起こっています。

この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のために様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。

また、諸外国の救助隊を始め、多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。

被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。

そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。

  両陛下追悼式ご出席
天皇陛下は11日の東日本大震災一周年追悼式に、皇后さまとともに出席された。2月18日に心臓の冠動脈バイパス手術を受け、今月4日に退院されてから1週間。被災地に思いを寄せ、手術前から出席を強く望んできた式典で、陛下は「国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています」とのお言葉を、約4分40秒かけてゆっくりと、はっきりした口調で読み上げられた。

モーニング姿の陛下は、しっかりとした足取りで、喪服姿の皇后さまと「犠牲者之霊」の標柱の前に進み深々と一礼、午後2時46分には黙禱をささげられた。出席時間は当初予定の40分から20分に短縮されたが、退場の際には、岩手、宮城、福島の遺族席に向かって丁寧に一礼された。陛下は3月中は、お住まいの皇居・御所で静養される。H2面に「国民とともに」


 

遺族代表の言葉 宮城県 奥田江利子さん
涙を越えて強くなる

東日本大震災では大勢の人が亡くなりました。そして、いとおしい人を思い続けるたくさんの人が残されました。私は津波で甚大な被害を受けた、宮城県石巻市北上町に2人の子供と両親とで住んでいました。

震災の1週間前、23歳だった長男、智史(さとし)の結婚式でした。息子夫婦が入籍の日に選んだのは3月11日でした。2人はわが子の誕生を楽しみに、人生で一番幸せな時を迎えていました。私たち家族も、その将来に向けてささやかな幸福を感じておりました。

震災の日も、いつもと変わらない朝を迎えて、変わらず明日が来る、来ないなんて思いもしませんでした。地震の後、息子は家族の身を案じ、妹と祖父母が身を寄せていた近くの指定避難所に車で向かったそうです。

津波が海から数㍍の避難所を襲い、たくさんの尊い命をもぎ取り奪っていきました。

窓からは、迫り来る波が見えただろうに、「どんなに恐ろしい思いをしたか」。それを思うと胸が締め付けられます。ただただ、かわいそうでかわいそうで、いたたまれません。

次の日、避難所から100㍍の自宅のあった場所近くで息子は見つかりました。一緒にいたはずの娘は家族の一番最後、ーカ月後にやっと見つかりました。妹をその腕の中で守っていたかのように手を組んで水たまりに横たわっていました。「おかあ、俺なりに頑張った」。そう言っているようで、「おまえ頑張ったな。偉いぞ。みんなと一緒にいてやったんだよね」。何度もそう話しかけました。

冷たくなった夫にすがって泣き続ける嫁。こんな残酷な思いをさせてしまって本当に申し訳なくて済まなくて、残されたこの子らがふぴんでなりません。身重の妻を残して逝った息子の気持ちを思うと、どんなに無念だったか、この母が代わらせてもらいたかったです。

見渡す限りの惨状に地獄はここだと思いました。私の大切な家族。強くて厳しかったけれども心の温かだった母。一家を辛抱強く支えてくれた父。年の離れた妹を心底かわいがり父親代わりをしてくれた息子。心優しく、その笑顔がわが家の明かりだった娘。

14年ぶりに授かった娘は家族の宝物であり私の生きがいでした。受け止めがたい現実、やり場のない怒りと悲しみ、そして限りのない絶望。最愛の人を失ったというのに自分が生きているという悲しみ。「生きることがつらい」。そう思う申し訳ない気持ち。生きていることが何なのか、生きていくことが何なのかを考えることさえできない日々が続きました。

愛する人たちを思う気持ちがある限り私たちの悲しみが消えることはないでしょう。遺族はその悲しみを一生抱いて生きていくしかありません。だから、もっと強くなるしかありません。涙を越えて強くなるしかありません。今、私はこう思うようにしています。

「子供たちが望む母でいよう」「これでいいだろうか」「こんなときに両親はなんと言うだろう」。
そう思うことで亡くした家族と、一緒に暮らしている」。そう感じていたいからです。絶望の中にさす光もありました。息子は私たちに生きる意味を残しました。忘れ形見の初孫が7月に生まれ、元気に育っています。その孫の成長が生きる希望へとつながっています。

最後に被災地の私たちを支えてくださった多くの皆さん、日本全国、世界各国の皆さまに心から感-謝を申しあげます。皆さまからの温かな支援が私たちに気力と希望を与えてくださいました。

だから今日までこうして過ごしてこられました。その恩に報いるには、私たち一人一人がしっかりと前を向いて生きていくことだと、そう思っています。

さしのべてもらったその手を笑顔で握り返せるように乗り越えていきます。本当にありがとうございます。


父が大好きでした 福島県 村岡美空さん
福島県浜通りの北部に位置し、重要無形民俗文化財に指定されている相馬野馬追の土地、相馬で私は育ちました。家の近くには太平洋が広がり、漁港ではホッキ貝やカレイなどが水揚げされ、日本百景の一つに数えられている松川浦がありました。

2011年3月11日、あの日、この風景と私たちの生活が一変しました。午後2時46分、突然、今までに感じたことのない大きな揺れが何度も襲ってきました。私は、津波を心配し、慌てて高台にある小学校へ車で避難しました。

私の父は、地元の消防団員です。高台の小学校に着いたとき、聞こえた車の急ブレーキ音に振り返ると父でした。父は、車の中から家族の無事を確認しただけで、消防団の活動に入ると言い残し、急いで走り去りました。

高台の小学校は、父の職場から家までの通り道です。大きな地震と津波の心配で、職場から車を飛ばし、地元へ向かっている途中で、偶然、私たちと遭遇したのです。

それからしばらくして、ものすごい音が響き渡りました。高台から見える光景は、一瞬にして変わり果て、住宅地は、海の底に沈んでいきました。現実とは思えない、何と表現したらいいのかわからない光景に、私は、ただ、茫然と立っているだけでした。

避難先の小学校では、食べ物もなく、不安の中、寒くて暗い夜を過ごしました。家族と離れ離れになり捜しまわる人もたくさんいました。私も父と連絡が取れず心配でたまりませんでした。

数日がたったある日、父は、変わり果てた姿で、私たち家族のもとへ帰ってきました。人の役に立つことが好きで、優しかった父。学校行事も積極的に参加し、小学校の時には、バレーボールも教えてくれました。私はこんな父が大好きでした。

捜索にあたっていただいた皆さん、父を見つけ私たち家族のもとへ届けてくれた皆さん、りがとうございました。1年がたっても、いまだ行方不明の方がいることに心が痛みます。

天皇、皇后両陛下はじめ、たくさんの方々のお見舞いや励まし、ご支援ありがとうございま
す。現在、私は、神奈川県の中学校に通っています。

小さな頃からいつも一緒だった友達と離れ離れになり寂しいですが、こちらの中学校でも新しい友達ができました。勉強は、ボランティアの大学生の方々にも教えていただき、頑張っています。

将来は、少しでも人の役に立つ仕事に就きたいと思っています。また、復興に向けてみんなで力を合わせ、頑張っていきたいと思います。