東京雪州会 会員各位
 東京雪州会役員 各位に対して、壱岐神社・護国神社本殿拝殿改修工事への浄財寄進の要請書が届きました。壱岐神社の御祭神は亀山天皇、後宇多天皇、弘安の役で19歳で壮絶な最後を遂げられた少弐資時公、大東亜戦争の犠牲者1900百余柱の御霊が祭られています。

 ふるさとの歴史。文化・伝統を後世に伝える貴重な遺産の一つと思われます。壱岐市島民の精神的な支えにもなっています。壱岐市の誕生でふるさとは、一市となり、三位一体の改革を余儀なくされていますが古代の一支国の誕生にも例えられる21世紀の壱岐市ではないでしょうか。国の財政はバブルの崩壊で、奢れるもの久からずのたとえどうりになって平成不況は底はついたとはいえまだ。混沌の状態は続いています。

 この原因は何に由来するのでしょうか?資本主義社会の矛盾か、政治の失策か、わがまま勝手自由の結果か、離島は特別に優遇されて本土並みに支えられたことも素晴らしい施策であったでしょう。しかし、今となって、とやかく、政府を批判しても何も生まれません。生まれるものは、政治への不満、社会不安でありましょう。この現実に目をむけ、島民一人一人が我こととして考え、国の施策を支えとして、壱岐独自の発想で子々孫々のために、バブル期に蓄積されたインフラを活用する時でありましょう。壱岐は本来豊饒な島、蓬莱島でもあります。一次産業の発展なくして発展はないとはいえ、壱岐の地理的特性を生かしたグローバルな発想も出来るのではないか。聞くところによると玄界灘の温泉に韓国が興味を示していると言う。交通機関の発達で世界は小さくなっているではないか。ジェットフォイルであっという間に来れるではないか、また、立派な空港も遊んでいるではないか。

 壱岐が活気を取り戻すためには島民の意思一つにかかっている。要はやる気であろう。今日の農業技術、水産技術をフルに活用して壱岐が平成の蓬莱島にすることで玄海の小島に国民の、いや韓国の、中国の目が注がれることになりはしないか。夢かも知れない、法螺かも知れない、しかし、待っていては何も起こらない、試行錯誤のためには公は島民の若い意欲を育てる環境を醸成する必要があろう。

 遠く、ふるさとを眺め、聞こえてくる声は”どうむこうむならん老人の島になてしまったつ。帰ってきてやってみんね”と恐ろしい声が聞こえます。”そげんこつなら何も言えんとですたい”と逃げるしかないのではないでしょうか。

 どうしたらいいのでしょう??? 

 以上は個人的な趣意書への賛同の意見であります。お賽銭・浄財は何時のころからかは知りませんが人間は一人では生きてゆけない現実を知り、相互扶助の叡智を感じる。一円から億円まで、人の心次第で、その時の思い次第で自分のためは人のためと考えるすばらしいボランテイアの心と思います。今こそ、この心がふるさとを救うのではないでしょうか。

 島民の、特に時代を背負い、ふるさとに定住する人たちの、島の歴史・文化・伝統を再認識して心の支えとなりふるさとに誇りをもつきっかけにならないかと考える次第です。平成16年も暮れようとしています、来る新年に希望を抱き古来より先人たちが一年の反省、五穀豊穣、無病息災を島民個々の心の安寧を願った鎮守の森の神様に参拝することにもなり、壱岐の七社参り、聖地詣でを思い起こすことになるでしょう。関係者各位の責任は重い時代が来ていると思っております。来年もよい年でありますように!
                             文責 東京雪州会 副会長 竹富鉄一