情報源:サンケイ新聞(平成18年('06)4月24日・・特集:唄いつぐ 親から子へ・・・壱岐民話伝承グループ「いろり座」

協力:日本子守唄協会http://www.komoriuta.jp/)

  唄いつぐ 親から子へ  長崎シーボルト大教授   小林美智子A
 「あやし」のできない母親たち

 乳児健診が始まり、私は「あやちゃん、さあ、診ましょうね」と赤ちゃんを診察台に寝かせ、目を見つめた。”おや、どうしたのだろうか…”。じっと見つめ返すものの、にこりともしない。それどころか、眉間にしわまで寄せている。毎月一回、長崎県時津町の乳児検診に出かけるが、今月は三十七人もいて、”この少子化時代に!”と、うれしい悲鳴を上げた直後だった。時津町は、長崎県では長与町に次いで出生率が高い。長崎市のベッドタゥンである両町は、若い世帯が住みやすい街のため、核家族が多く、転出入が激しい。 生後三、四カ月というのは、本来、人見知りもまだなく、人の顔を見ると、ぱっと笑みが返る時期だが、あやちゃんには天使のようなほほえみがなかった。

 その後も、「あやちゃん、あやちゃん、いい子だね」と声をかけながらひと通り検査を済ませ、再び目を見つめ声をかけると、ようやく、にんまりと口元がほころんできたのでほっとした。 笑わない赤ちゃんが目につき出したのは十四〜十五年前。長野県伊那保健所に勤務時で、各町村の乳児健診を担当していたころのことだ。あやちゃんが笑わなかったのは、お母さんに原因があるのではないかと思い、傍らに立っているお母さんに、「いつもするように、あやしてみて」と伝えた。すると、きょとんとした顔をしている。「さあ、赤ちゃんをあやしてみて−」とさらに催促すると、赤ちゃんのほっペを指でつついて「ほらほら、あやちゃん…」。赤ちゃんの方は、むっつりしているだけだ。

 このような状況は、このお母さんだけではない。「あやしてみて」と言われ、何を勘違いしているのか、「嫌、恥ずかしい」と身をくねらせるお母さんもいれば、「ひろくん、ほら、笑って」と赤ちゃんを高く抱き上げ揺さぶるお母さん…。「あやす」ことを知らない若いお母さんが増えてきた。 こんな現状を日の当たりにして、従来、親から子へと受け継がれてきた育児文化が、核家族化によって途絶えようとしているのではないか、と感じている。 そこで私は、"家庭でできないのなら、地域で何とかするしかない"と立ち上がった。

 何かを始めるにあたっては、「あやしの学校」をつくるわけにもいかず、いろいろ考えるうちに、「絵本の読み聞かせ」を始めることにした。母と子の双方の心を育てるための保健事業なのだ。 絵本は、お母さんが声を出して読んでみて楽しくなり、絵も、お母さん自身が"いいなあ"と思うものにする。そして、押し付けではなく、「図書館や書店で実際に手に取ってみて、読んであげたくなるものを探してほしい」と伝えた。

 赤ちゃんが生まれて初めて口にするのはお母さんのおっぱいであり、初めて耳にするのはお母さんの声だ。 目を覚まし、優しく語り掛けられる母の声を聞いて赤ちゃんは育つ。ゆっくりと歌うように語りかける母の声を聞いて、赤ちゃんはやすらぎ、信頼が生まれる。そして、三−四カ月たつと、赤ちゃんは人の顛を見て即座に反応し、天使のようなほほえみで応じるようになる。母の言葉こそ「子守唄」の始まりなのだ。 
協力 日本子守唄協会

唄いつぐ 親から子へ  長崎シーボルト大教授   小林美智子B
 万国共通の心優しい歌声

 
豊かな自然の中で、質の高い育児文化を育てたい−と思った私は、平成三年、南アルプスのふもとの長野県長谷村(現・伊那市)で、心育ての子育て大会「親子すくすくカーニバル」を開いた。 二回目となる翌年の大会では、トークショーや、村の小学生らにより童謡や子守唄が披露された後、タイのサリーを看けたケイコさん(日本名)が壇上に立った。ケイコさんは、三カ月になる二人目の子供を抱き、母国タイの子守唄を歌ってくれた。歌詞の意味は分からないが、その叶コはなんとも優しく、会場は水を打ったようにシーンとなった。
 司会者が「どんな歌詞ですか」と尋ねると神様「私の赤ちゃんを お守り<ださい と答えた。 タイから長野県中川村にお嫁に来たケイコさんは、”いつもにこにこしている働き者”と村の人の評判が高い。八人の兄弟姉妹という彼女は、国では妹を抱き、椰子の実を揺すりながら子守唄を歌っていたそうだ。

 どこの国にも子守唄があり、言語は違っても、その歌声は母子ともに心を癒やし、優しい気持ちでいっぱいになる。 無料インターネットテレビで放映の「世界の子守唄『地球はゆりかご』」を制作する小沢義明チーフプロデューサーによると、タイには『揺らす』という曲名で、

 お空の上で
 ウサギとイヌが、
 友達になりました
 ある日
 お空が洪水になりまし た
 ウサギとイヌは
 だっこしながら
 たのしそうに
 泳いでいます

 という子守唄がある。 また、フィリピンから長野県高速町(現・伊那市)に嫁いだ、別の女性は、二人の子供と一緒に、タガログ語で子守唄を歌ってくれた。結婚後、慣れない日本の風習には苦労したが、子供たちの幸せを願って辛抱したようだ。 日本子守唄協会(西舘好子代表)によると、フィリピンでは

 おやすみ 可愛い子
 お日様沈んだよ
 野原の小鳥も
 眠るよ 巣の中で
 静かにおやすみ
 料理をするよ
 父さん もうすぐ
 帰って<るよ

 という『お母さんの子守唄』がよく歌われる。 長野県伊那保健所に勤務していた平成五年、乳児健診に来た母親たちに、子守唄がどのような効果を持つか.、聞き取り調査した。 子守唄を歌うことによって子供が「落ち着く、じっと聞いている、顔をじっと見ている」と答えた人が41%もいた。続いて、「喜ぶ、笑う」が16%、「一緒に歌う、遊ぶ」と「眠る」がそれぞれ11%だった。

 また、母親自身も、半数を超える54%が「心がやすらぎ、なごむ」、11%が「子供がかわいく、愛情でいっぱいになる」と答えた。子守唄を歌うことで、子供がかわいく、いとおしさでいっぱいになや親としての実感がわく効果が認められた。 時空を超えて子守唄が歌い継がれていかなければと強く思った。

協力 日本子守唄協会(bttp://www.komoriuta.jp/)

   唄いつぐ 親から子へ  長崎シーボルト大教授 小林美智子C

 心が痛んだ末娘の言葉
赤ちゃんの健診をしながら、私はよく「赤ちやんに子守唄を歌っていますか」とたずねる。私の末娘に「若いお母さんは子守唄を知らない人が多いの。"子守唄を赤ちゃんに歌ってあげてね"っていつもいっているんだけど」と語り掛けると、末娘は「子守唄は大切だよね。私が小さいころ、お母さんが仕事から帰って来るのが遅くて、一人で寝なきゃならないときは、いつもお母さんが歌ってくれた子守唄を小さな声で歌っていたの。そうすると、傍らにお母さんがいてくれるような気持ちになって安心して眠れたわ」と話してくれた。

 かつて保健所長の仕事をしていた私は、仕事で帰宅が遅くなることがあった。帰ると小さな子供たちは既に寝ていて、その寝顔を見て「ごめんなさい、遅くなって。きょう一日、元気だったかしら」と心の中でささやいた。だから、早く帰った、ときには、眠る前に子供の好きな絵本を読んだり、子守唄を歌つてあげたりして、一緒の時間を大切にしてきたつもりだ。歌った子守唄は確か、NHKテレビの「おかあさんといっしょ」の中で歌われていたもの。ゆったりした、春の夜空を雲に乗ってふんわり飛んでいるような気分になる歌だった。それにしても、成人して初めて聞いた娘のその言葉には心が痛んだ。

子守唄を唄ってきて良かったとつくづく思う。子供心に寂しさを我慢していた娘の気持ちを思う,と、言うべき言葉もない。しかし、働くことは男も女も同じだ。子供にとつて、母親と父親は、それぞれ代わることのできない、かけがえのない存在。それだけに、子供の発育にとって大切な時期に、子育てをしながら安心して働けるような社会環境を築いて、いかなければならない。

 一年間の育児休業が法律で保障されたのは平成三年。だが、現実は、それ以降も、中小企業で働く女性にとって、育児に専念できる時間は、なかなか取れないのが実情だ。生物学的に「ヒト」とーして生まれ、社会に生きる存在としての「人間」に育っていく人の子は、人と人とのコミューケーションの基盤を乳幼児期にしつかりと作っておくことが何よりも大切。母と子の絆がその基礎になる。

 お母さんが赤ちゃんに語りかけると、赤ちゃんはそれにこたえる。「あーあーうーうー」という声から「まんまー」という喃語(なんご=まだ言葉にならない段階の声〉になっていくが、言葉は放っておいてひとりでに出てくるものではない。言葉は目に見えない。語られて、耳で、体で、心で、聞くものだ。お母さんの語りかけは、赤ちゃんにとっても喜びを共有する「人と人とのつながり」の始まりだ。子守唄は母の思いを込めた言葉。生まれてくるどの子供もみんな、母の豊かな言葉から育ってほしい。こうした環境がすべて整ったときに初めて、仕事をしながら育児をして、女性として生きている自分に満足できるようになる。

協力  日本子守唄協会  (http//www.komoriuta.jp/)

  唄いつぐ 親から子へ  長崎シーボルト大教授 小林美智子D

母乳こそ生命力の根源
 
テレビで「頭のよくなるミルク」がよく宣伝さされていた昭和四十年代の初めに、私は小児科の医師となった。 その宣伝文句に「そんなばかな」とは思ったが、母乳で育つ赤ちゃんがみるみる減っていく様子に、商業主義の恐ろしさを感じた。そして、”小児科医の本来の役割は病気を治すことだが、なるべく病気にかからない丈夫な子に育てることも大事な仕事だ”と思うようになった。子供が丈夫に育つためには、大切なことがいくつもある。その一つは、哺乳類である人間ならごく当たり前の「母乳で育てる」ことだ。母乳で育つことをもっと大切にして、母乳による育児をしやすいようにするために、自分にできることをやろうと決めた。 昭和三十年代には生後三カ月児で80%だった日本の母乳での育児率は四十年代には30%台にまで減った。

 当たり前のことが当たり前にできない社会に激変していった。「母乳が出ない」とか、「赤ちゃんが泣いてばかりいるのは、母乳が
足りないからなのではないか」などと相談してくる母親を目の前にして、”本当に母乳は出ないものなのかしら”と思った。もし、私自身の子供が生まれたときには、ミルクを一滴も足さずに初乳から飲ませよう、と産科医にお願いして母乳による育児を実践してみた。

 出産後、最初の一週問は、子供の体重がはとんど増えなかったため、ミルクを足すよう看護婦さんたちが持ってきた。だが、赤ちゃんが泣くたびに乳房を含ませているうちに、だんだん飲むのが上手にな1て、「ごっくん、ごっくん」と飲めるようになった。すると、母乳もよく出るようになってくる。 母乳による育児は子供が生まれ出て初めてする母との共同作業だ。子供に飲む気がなければ、どんなに飲ませようとしても飲まない。一方、ミルク瓶は、母親が子供の口に入れれば、反射的に口を動かし簡単に飲める。母乳による育児は子供が主体だが、ミルクの場合は母親が主体に代わる。 額に汗して、全身で一生懸命に母乳を飲むわが子を見ていると、「労働が、ヒトを人間にした」と言ったある思想家の言葉が思いだされ、いとおしさと感動を覚えた。

 母乳は、子供が乳頭に吸いつくと、その刺激によって母乳を作るホルモンが分泌されることで、乳腺で血液から瞬時につくられる。たまった母乳を飲むのではなく、わいて出てくる母乳と一緒に生命力を飲んでいるのだ。そして、お母さんは、母乳とともに、母の持っている文化や言葉も飲ませていく。 夏の生まれのわが子は、暑いのか、布団に寝かせるとぐずることもあり、日陰で抱いて子守唄をハミングし、ゆっくりゆっくり揺すっていると、すやすやと眠った。母に抱かれて安心して母乳を飲むことが体と心の栄養となり、人を信ずる心が育つ。 子を産んだ親が、母乳で子供を育てられる社会は、高齢者にとっても安心して住める社会だ。命の大切さを教えるには、まず言葉を大切にすべきだ。最初の母の言葉である子守唄が流れてくるのが当たり前の社会にしたい。

   =この項おわり
協力 日本子守唄協会(http://www.komoriuta.jp/)
 (次週は女優、藤村志保さんです)