壱岐一宮 天手長男(たながお)神社 「一宮ノオトP−171」
壱岐は福岡北西70km、既に3世紀、魏志倭人に「一支国」(いきこく)としてあらわれる。古く太宰府が直轄したが、13世紀元元寇の時、守護代ほか玉砕、二度にわたり元軍の劫略を受けたので、島民は松浦党の進出を受容して平戸藩領となり、その因縁で長崎県に属する(税関管轄は長崎でなく、門司である)。しかし今、平戸との間に航路すら無い。
国府を島央の芦辺町湯岳興触(こうのふれ)に置いた。国分寺はその地の豪族壱岐氏が、氏寺を提供した。なお触と云うのは、当島独特の村落内小区画である。壱岐は農漁分離(兼業はしない)で、漁村は○○浦とよぶ集中型、農村は○○触とよぶ散居型である。案外、広大な田畑を擁し、諌早湾干拓前は、長崎県下1位の耕地があった。
当国には式内社が24もあり、現人口1,500人に1社という超過密ぶりで、本土側の肥前が1社あたり60万人に比較すれば、負担過重が明らかである(横浜市には式内社が1社しかない。したがって、1社あたりの人口は350万人である)。この過剰は、島が古代文明の通路にあったこと、及び、外敵防衛を神威に頼ったことから説明されている。しかし元軍は破壊した。ハードだけなら復興可能だが、古社を維持承継するソフトも塵滅し、多くの式内社は格調を喪失した。当国一宮はその 典例である。
壱岐一宮天手長男神社(天の字はサイレン) は、1676年、橘三喜が平戸藩主からの委託調査 の際、「国の宗廟たりといえども跡かたもなく」(『一宮巡詣記』)なっていたので、郷浦町の小丘 上を、ここだときめた。竹薮から発掘した石仏が 当社の重文弥勒坐像である。出土状況の記録は無 く、出土地天手長男神社とされているが、話は逆で、出土したからそこを神社ときめたのだ。現在、 新建材でカバーした荒れた社殿があり、川村教授は、「無惨」と形容している。
壱岐式内7社めぐり
式は当社を名神大社に格付けたのに、明治政府は橘三喜を信用せず、一宮としては例外的に当社を村社にとどめた(ノオトその20)。島民も信用しない。実は、当地に7社めぐりの慣習があって、式内24社中の大社7社を巡詣する。この時島民が式内大社天手長男神社として詣るのは、興(こうの)神社である。この神社は、国府、国分寺、総社に近いが、現状は、破れ覆屋(おおいや)に隠された流造小社殿が平地にたつだけだ。七社めぐりの札が貼ってある。
さて、話はややこしくなるのだが、興神社社標に、「神名帳の興神社也」と記すが、興神社は神名帳には無い。有るのは、與(よの)神社で、興神社の少し東の、式内小社である。だからいっそ社標に
は神名帳の天手長男神社也」と書いてほしかった。
一宮の先住の神々
一宮の祭神を天手長男命と申し上げる。一宮の先住の神々について、既に、陸奥(蝦夷、アイヌ)と大隅(熊襲、隼人)の項で触れ、ここでみたび触れるのは、祭神は、一支国時代の現住島民の碑
だと私が思っているからである。
わが本州先住の穴居人たる縄文人(古モンゴロイド)は、弥生人(新モンゴロイド)に比較すると、手足が長かった。神武東征の際、出現する土蜘蛛族や、天孫族東遷第1波のニギハヤヒ(日向の項)が提携した在地先住族首長のスネは、長かったナガスネヒコという名であった。弥生人は先住者の習俗と信仰を一部受け継ぎ、たとえば、宇陀の墨坂神社では、神武に負けた先住神がそのまま土
神となった。その種の残照はなお、諏訪市の足長神社と天長神社にも映えている。十一面観音像のお手が長いのは、あるいは、南インドのドラヴイタ族の連想かもしれず、南アジアから本邦渡来の部族は、事実いたとされている。
壱岐では、受容された先住手長族の神は、後来より神威高く、一宮に祀られた。神名帖にはほかに天手長比売(たながひめ)神社、及び、天の字を欠いた手長比売神社が登載される。前者は、一宮祭神の妃神として、当社と向かい合う小丘上に坐していれた。双丘は遠からず、近からず、夫婦神のむつまじさを典型的に表現する距離にあるが、かつての国人の、かかるほほえましい配慮は、断絶した。今、妃神は一宮に合祀され、鳥居だけ旧社址に、一宮鳥居に向かい合って、たったままである。
以上手長族の神が少なくとも3社で、毎年ヤマト朝廷からの、延喜式規定の幣を受けておられた筈である。島ではさだめし盛儀だったであろうその情景を偲ぶことは、元軍来寇が不可能にした。
もうひとつの一宮
式の大社7社のうち、明治の官社と認められたのは、住吉神社だけだ。明治政府は橘三喜を信用せず、さりとて民衆の俗信も重視しなかったことが判る。元寇後、当国式内社は、上記例のように混乱し、疲弊したが、当社は例外的に、橘三喜の頃から厳然とあった。それ故近年の文献でも、当社が名実ともに当国一宮だとするむきが多い。
国道から少しさがった窪地状の地形に坐し、住吉3神を祀るが、1座1殿である。摂津、長門、筑前の一宮たる住吉神社は、すべて海近く鎮祭するが、当社は、農漁分離の当国において、海と緑のない農村に坐す。不思議である。
国学者折口博士も当地では、彼が能登一宮で得たような、神学上の啓示に恵まれなかった。彼は屈託して、当国の最高峰岳(たけ)ノ辻に登って、かの絶唱を得る。
葛の花 ふみしだかれて 色あたらし
この山路を 行きし人あり
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