ノオトその1 一宮の成立
一宮は、平安後期以来、国ごとのランキングで、ナンバーワンとされた神社である。 この定義は相当不完全である。国ごとの、と言うが、国はいくつか。つまり、一宮はいくつ有るのか。ランキングと言うが、誰が、いつ、どうやって、なんの為に、決めたのか。判つてないことがかなりある。
先ず、国の数であるが、この、あまりにもベーシックなデータが安定しない。ここではかりに、68として置いて、後日つめることにしよう。そうすると一宮は68有る。つまり、ランキングは、正確に国ごとになされ、一国のなかをわけてみたり、隣国と連合して代表をきめたりはしないのである。(別に、一宮神社と称するような、お宮もあるが、後に触れる。)
次に、誰がきめたのか。国分寺は、741年、聖武天皇が「国々に建てよ」と勅命を発せられた。しかるべき予算措置も講じなかったが、奈良末期には曲りなりに68寺がそろった。遺跡はいまほとんど判ってきたが、創建時の寺々はことごとく消滅した。(東大寺を国分寺とみるならば、それは消滅の例外である。ノオトその24参照)これに対して一宮は、何天皇が指令したのか判らない。それなのに、68社すべて現存する!こんな奇跡的対照性が、日本人の思想にはあったのである。
ランキングのものさしとしては、神社の神領、神階、参詣数、それに昔の有力社なら朝廷との通婚頻度、今なら国宝・重要文化財保有数など考えられるが、どうもそんな客観性にこだわった形跡はない。日本人は数値目標が嫌いだったらしい。そのくせ、ランキングは好きで好きでたまらない。業界別売上ランキング、芸能人所得番付、市町村の情報化度ランキング等々。神社ランキングだって、一宮のほかにもやたらある(後日紹介する)。キリスト協会にだってある。たとえばレジデントである司教座を置いた教会だけが、カシドラルと称する。カソリックのヒェラルキイが要請するランキングである。
一宮は何が要請するランキングであろうか。国ことの首長、すなわち国司の、国内神社参拝順を定める必要からきめたという説もある。この国司というのは、どうもよほど多忙な官職であったらしく、あろうことか、国内各社をまとめた総社をきめ、そこだけ参ってすませちゃう便法も、別に作った。当時68きめられた総社の現存率56%。民衆もこの程度には国司の便法を活用したことになる。一方一宮のケースでは、むしろ無目的のランキング、いわば、ランキングヘの純粋情熱が千年の継承を支えたのではあるまいか。
学説は誰が、どうやって、決めたのか、について直接答えない。そこで、学説の片言隻句に基づき、無理矢理次のように2分する。一宮の成立をトップダウンとみるのは、樋口清之樽士、上田正昭教授ら。ボトムアップとみるのは、吉岡吾郎、佐野和史、梅田義彦ら各氏。後者の見解の弱点は、国々に洩れなく一宮が成立した事情を説明しにくいことである。私は、ここでも日本人の思想、すなわち、ランキング情熱のとなりの、もうひとつの情熱であるところの、あの、あくなきヨコナラビ精神、これで説明できると思っている。
ノオトその2 一宮がある国の数
一宮は、国ごとのランキングで、ナンバーワンとされた神社である。だから、一宮はいくつぁるか、という問いには、先に、国の数を決めておかないと、答が出てこない。 国は、時代により離合し、数が増減する。たとえば、現福島県の磐城、岩代両国は、8世紀に陸奥国に合併(国数マイナス2)したが、なんと明治元年、再び独立、同時に陸前、陸中も分立、陸奥は東北太平洋岸の大国から、一挙北端の小国になり果てた(プラス4)。どうも日本人は、よほど組織をいじるのが好きで、廃藩置県を僅か3年後にひかえ、物情騒然たる中で、こんなカケコミをやっている。だから陸前一宮が存在しても、事実存在するが、本稿の一宮は平安後期成立と考えるので、一宮がある国の数にはカウントできない。
日本六十余州と一般に云うが、平安後期以降の国の数は66だと思われていたらしい。祇園祭にははじめ、鉾66本を立てた。平家物語は、「日本はわずかに66国、平家の知行30余国、すでに半国をこえたり」とうたい、西国守護大名山名氏は、66国のうち、11国を領して「六分一殿」(ろくぶいちどの)とよばれた。外様(とざま)領に潜入するお庭番は、「六十六部」姿に変装したが、これlは66国巡拝行者(ぎょうじゃ)の称である。
六十六部を略して六部といい、藤沢周平は『ふるさとへ廻る六部は』を書いた。それなのに『六十余州名勝図会』という浮世絵は、70枚構成で、国が68ププラス江戸、大日本である。たしかに私が数えていくと、68になってしまう。そこで皆さん、ツジッマ合せに苦労した。室町時代にあらわれた『大日本国一宮記』ではどうしたかというと吉備国が備前、備中、備後の3国に分解した時期は、もう判らない程大昔であるのに、3国を吉備1国に扱い、それなのにその後713年、備前から分立した美作(みまさか)はちゃんと1国に数えて、計66国にむりやり圧縮した。安芸、備前両国をしらん顔でとばして、計66とした一宮資料もある。
66は、68から壱岐、対馬を除いたのかもしれない。しかし、では何故、淡路、佐渡、隠岐は除かれないのか。もちろん対馬にもちゃんと国府を置き、国司を派遣し、国分寺を建てた。藩主宗氏が江戸城内で詰める座敷は、国持大名並の待遇を受けた。日本人は、国の数を過少申告するという、世界でも珍しい思想にとらわれた民族だったのかもしれない。妙な謙遜にまどわされず、ここは68でゆこう。そうすると一宮は68だ。ただ現実はもっと複雑な数 になる。後日述べる。
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